200年のポジシション


であるから、そこにいる者が何であろうと、いなければ何かを置いてもやることはやるに、200年前から決まっていることと思うべきである。
何かのために、何かのために、というが、何であってもいいのであるから、それが何かであるために、いるために、引かれている仕事なのではない。
逆に、200年の大冒険に利用するために置かれたポジションに過ぎない。
ポジションなどというものは、決してなくならない。
置いて、使うだけなのである。


それからもう一つ、何かのために、何かのためにと、一所懸命にも表現するが、その応援の実が余りに無きに等しい。
善くする為の大運動とは思われない。
家族も亡くして、何の仲間も地位もない、班長も亭主もやれない小男が、独りで暮らしているだけである。
大した悪さも知らないで、一人だけ犯人扱いされかねない。
馬鹿な話である。
そのような、目の付け方に浮いた状況が日本国にあって、そういう所からいつまでも、危険の所在と原因を見抜けないでいるのかもしれない。


現実には存在していないもののために、運動は盛り上がらなければいけないということなのであろう。
真実の実力者、隠れた世界史最大の征服者は力を示したいということがある。
冗談ではない支配者である。
気が付かないでいる人が多いが。
地域地域ではやり難い所はあるとしても、その専売特許的な人間の揃え方の腕力たるものは、人の世にもないような驚異すべきものである。
それを知らないでいる世間に無理難題を押し付けてもみたくなる。
人に夫役を強制して、猿公のようにエバル者を奉っているという、全くの架空芝居を構えて止まないというのも、支配者の持て余すばかりの力のなせる業なのである。
潜めるマグマは大爆発したくなる。
「あんまり力持ってしまった」 (組織幹部周囲)
意外と19歳だったな、世の中。


明治の代の武士団達には、個人の出世のためでない、国の近代化のためだ、という公共心に発するものがあったのかもしれない。
明治天皇のお祭りには、19歳連ばかりでない、ちゃんと徳川将軍まで揃った評議があってのことだという、ご訂正の報告を承った。
江洲農の出身者も大勢加わっていたと思われる。
与謝野氏とか、牧野氏とか。