映画観るようだ(A指導者)


と指導者の方がつぶやいておられたという話を届けたことがあった。
その意味合いを再述すれば、こういうことであろう。
1. 現実の現象、偉人、作者、リーダー、受賞、著作、戦争、芸術、ファッション、なんと全部作ったものだ。
2. 観客が映画を観て喜んで忘れていくように、はかなく無責任に他人事のように、事件が観客の眼に映るワンシーン、ワンシーンとして移り過ぎてゆく。それだけである。何かの清算的な考えがあるということはない。
作者は無責任な観客精神でいるのである。
3. もちろん本当の映画に劣らない、見事さ、ファインプレィ、人気現象(ブーム)、帝王現象、犯罪、多様さがある。
4. キャスティングの偏り、取り合わせが抱腹絶倒の域である。
5. その実世間を眺め観るといったって、やはりニュース映画画面で観るしかない。
6. この絶大腕力の仕事の成果を眼の前にして、結局一人で映画を観るだけのようなもので、物足りない。世間に向かってラッパを吹けない。握っても握っても、永遠に音のしないへくそ循環である。嘘を吐き隠れているしかなく、ふさわしい世間のどよめきを聞くことができない。
7. 作者観客は画面に現れることはできない。画面に現れることのできない作者観客の立場のように、心に意気軒昂とした精神の主張がない。結局遂げるべき、恥ずかしくない精神の中身がない。人間にふさわしい、叫び訴えるべき大義がない。
8. 映画を観るようだ、と短く言うように虚しい。そのボソッとした独り言のように空虚である。その独り言で作られたような、映画作品のような世界の現実である。(Douglas, 桂、 申)