社会人教育学習の一実践例  菅江真澄のすわ八景和歌 

新平、日平とも書く。平らな台地上には広い墓地とりんご園が続いている。真宗信仰の歴史のある地域で、その婦人会建立の観音様が手厚く祀られている。英語でnewtonに通ずる歴史以前の集落地跡か。



 ご教示下さった先生方へのお礼手紙挨拶文

 
 K市に、平泉文化より早い、みちのくにおける大和王朝文化伝播史最初期の、かなりな規模の極楽寺堂塔跡があります。その堂塔群を包む國見山連山で最も高いさんご岳を、ちょうど真東に見上げてK川を渡るさんご橋があります。
 この「さんご」という名の由来が、京の比叡山側にある延暦寺の地主神、山王にあると歴史家が書いています。山王即ち日吉神社の名も、比叡山に由来するものと思われます。日枝(吉)神社は各地にありますが、K市では、「さんご」という山と橋の名に変わって伝わっているということでしょう。
 同封の文書は、古くからの多くの先生方のご努力を集めたもので、身近にあった古文書のすす払いの例に過ぎず、見直しのきっかけにでもなるなら幸いであります。
 

 追記 偶然にも、伊勢神宮代々の禰宜と同苗字の元校長先生と縁があって、引退後に社会教育の講演に歩かれていたのに出会い、無闇にもワープロ仕上げを頼み込んだ事がありました。その一部がこの真澄の和歌解釈のコピーで、御陰様で、皆様のお眼の下に送呈できる体裁のものにできている次第であります。ご夫婦共に校長先生にまで上られた方達で、ご主人も確か秋田出身で、みずから荒木田守武の子孫である事を自覚しておられたのか、和歌の掛け軸を何点か和室に飾られておりました。


     「菅江真澄のすわ八景和歌の解釈」


 「すわ八景和歌」に三河秀雄なる署名を残した人物が、すでに日本史に著名な菅江真澄である事が判明してから何年経ったのでしょうか。薄学の通り過がりの者ですが、詞書と共にすっかり意味を通し切って現代表記に直したものは未だなかったように思います。江戸ガナの原文に比べたらまるで霧がはれた山並みのように明瞭に、その真価をあらわにして私達の眼の前に姿を見せてくれます。
 K市の国見山周辺に、天台宗比叡山-日吉神社=山王守護神-珊瑚岳、八王子の峯といった一系列の実在の地名が古くからありますが、たまたまK川とK山地を見晴かす景勝地の東北方に、中国文化の伝来継承の一つとして名高い近江八景の、ちょうどぴったりとした見立てを発見されていたということは、郷土史にとって重要視すべきことであると思います。
 法楽の儀式としても珍しく、見立てが古典的に確かな来歴と構えを持っているところに、知識人であり文章家の菅江真澄との出会いを得て、全国的にもレベルの高い希なる文学的文化的事績たるに相応しい燃焼が可能となったものと思われます。
 しっかりとした把握によって、誇るに足る、奥行き深い日本文化の、みちのくにおける貴重な発火点燈の希少例であるとの認識が定まれば、もっと広く郷土に受け容れられ、公教育にも格式高い文化の資財として安心して自信を持って利用されることになるだろうと思います。


 江戸ガナ原本を活字に直したものがありますが、省略します。ほぼ金ヶ崎町文化財冊子にあるものを利用させていただきました。


            陸奥(い)澤郡須輪
            神社法楽八景和歌


 現代表記に直してみたものをお目に掛けます。


 神無月二十五日、みちのくの国胆沢の郡諏訪の御社に詣で奉る。かしこくもこの奥つ城は、いにしへ源頼義の大人、みすずかる信濃の国より遷し奉り給ふとなん。何くれのことは碑に伝えたれば、省きてもらしぬ。岩面の尻なる高き屋に登りてあたりを望めば、遠方の山々冬枯れの梢もおかしく、早池峰の雪、国見山のそびえたる、八王子の八つの峰、さんごヶ岳など、片岡山のながめにはいかるがの古事を持て渡り、近き処は北上の千船、三ヶ尻の原、釜ヶ淵など別けてあはれ深しとて、昔なにがしの君とかや数へ置き給ふとて、宝前に拝礼奉れる人の心あらん輩は、漢の、大和の風にことのは述べてめでたく聞こえたり。その中にわれも書き入れよと神官の行光の主の言へれば不相応にも拙き歌の八種を作し侍る。



                  天明五年乙巳
                    冬十月 三河秀雄(花押)


 * いかるは奈良の斑鳩に群居していたと言われ、真澄の「はしわの若葉」に、いかるががひじりこきと鳴いているという記述があります。「お菊二十四」「月日星」等と語って飛び渡るそうです。


(上記現代表記には秋田県立博物館の松山氏の漢字表記文例-私信-に教わる所がありました)