岸氏、中曽根氏、石原氏、皆九州男児であった(Fulton)

  遠野盆地北方



 日本国の運動には、明治の代にも九州南端から「壮児」軍を連れ立ったという一大基本が潜んでいたようだ。
 指宿、肝属の地名から勇人族の風貌に出会い、江戸時代中にも進められていた作戦だったのかもしれない。
 壮児には、勇人壮児、キャンプ壮児、流人壮児、いわれ壮児、混血壮児、「宗死に」壮児、渡来郷士壮児、重臣壮児等、バライアティがあって興味深かったであろう。
 上記苗字に当たる人達を元総理大臣の方々と誹謗して決め付けるのでもないが、浅黒く眉黒で、あるいは勇人基本にスター混血あるいは衆死にマリーン由来が重なった人達と想像することができる。マリーン族は色白で目に付き易く、潜伏集落地に仲間入りして土着することはできなかったという経歴を推理することができる。与論島辺りにも流れていたであろうか。
 調べれば誰でも簡単に見つけることができるが、雄飛根源地には、中村、井上、石川、児玉、池田、長島、中島、有馬、加冶屋、吉永、斉藤、山本、花田、増田、藤田、小川、山田、野村、松村など親しみ深い有名人の苗字が目立って並んでいる。
 珍しい例を挙げれば、あの榎本健吉さんの先祖は鹿児島の城中に勤めていた人だったそうである。
 K市の名物市長にもなったことのある斉藤さんは、島の番勤めをしていた侍であったというが本当なのであろう。元武士契約壮児というものもあったようである。
 K市に大勢おられる藤田氏、佐藤氏もマリーン系列ではないかという情報があった。
 やはり、スタート時点で戸籍のない非人境遇の人達が多かったであろうと思われる。
 あの上の家は当初の計画では、夫婦合わせて「里見浩太郎」となるべきであったようだ。あるいは、以上、江戸時代中の仕事であったのかもしれない。