上の家についての最新素描

 
   (無断に他所の家の屋敷景物を写しています。)
  

 組織から資金を貰った農家ではない。 


 1700年前後にも本部テーブル上で地図指定されていたようである。どうせなら地域(西和賀)一帯の祖源探索の可能性がある所をという一点で選ばれたものと推理する。
 ビバルディの四季計画が始められる。「風景」 バッハのバイオリン協奏曲が陸奥の春先の清冽で勢いの良い水の流れの輝きにモチーフを採取したものであるとしたら。


 九州人移住計画を集落ももろに被る。以下多く卑しいと思われかねない裏工作疑惑に基づくことであれば、法律上の記録と親族の遺言にもないことは、本人個人個人の信念に拠るしかない。
 「山本コータロー」が送られる。江戸時代中の仕事ではないか。同時に多くの九州人が集落の各戸に送られていたのかも知れない。組織の仕事はひっくり返されるほどに大胆で周到である。「コータロー」は後に陛下の忠義臣民として、国土護持の自警活動に身を挺することになる。岸信介氏のような、南国人独特の大きな黒々とした目をしていた人だったのかもしれない。「目取間真」
 本物の谷村新司さんの高貴な優しさに比べれば、本物の山本コータローさんは競馬出身で田舎っぽい。上の家では戦時中馬を可愛がる兵隊上がりの戸主がいて、馬に蹴られて亡くなる事故が起きていた。


 上の家はとんでもなく、自分が就く者でもなく、襲う者でもなく、単に黙々と勤めるだけの者であり続けた。

 明治維新後に八卦見をしに、その家の戸主に当たる十代の少年に組織が近寄ったという。その時に組織が顎が上がる家、という百年の思惑が決まったということになる。実際は前から決められていて予定通りであったのかもしれない。以後上の家はずっと酷い目に会い続ける。「気味悪い」描写まで背負わされる。何とか勤め人が出ても、30代で結核病になったり口が不自由になったりして倒れてしまう。

 不倫によって兄弟が一人づつ長子を持つ事を強要される。捕縛されたみたいに。今聞かされたことであるが、何と父親は二人とも島津藩藩士だったのではないかという。九州総覧図背景にあり得る事である。近くに一軒その由来を語っている入植家庭があった。
 祖父の方の父親は、その近隣の重臣家の人と九州で何かの出会いがあった人であるようだ。森重久弥重役にも似ているし、関口宏さんにもそっくりであった、と実の妹に当る人がよく口にしていた。遺伝子を貶めたいだけの手配ではなかったと言えよう。
 広場で即興シンガーソングライターを為し遂げて、記憶力ミラクルという鑑札付きで送られてきたのが、あの上の家の「ハツエ祖母さん」の父親であったことは確かなことのようである。 シンガーソン、というモチーフ単語の真実は、武田哲也若かりし頃に似せられた一人姿にあったのである。
 
 次に戦後、今なら一千万円にも相当する終戦直後の百万円を組織から預かって上の家に入った者がいたという。
 その人についていろいろな評判が囁かれていた。陶工郷士の者であった。仏俳優と連絡のある範疇にいたということが第一スタートであった。仏俳優は静かで堅い人物である。そのように静かで堅物であることが見込まれたのであろう。堅物は仁義でどこまでも潜る。「二部義士伝」 かつての御侮辱も誰かの身代わりにお受け申し上げる。
 「一千万円」の義理も少しの逡巡もなく払い切る。一銭も自分のポケットにしない。盗まない。誰も見ていないというのに。上の家にも入れなかった。もはや自分が死んでも勤めるばかり、の覚悟であったろう。「一千万円」も一時握ってしまったのである。今その心境がつくづくと分かる。
 組織「勤め人」であった。
 死ぬその日まで前のめりに働き続けた。投げたことがない。珍しい遺伝子であったと讃えられる。自分の趣味も喜びも捨て。夫婦一緒に電気料の心配をして、明日朝に乗る自転車のパンクを修理しながら。相応しい年金生活のゆとりも一日も知らずに亡くなってしまった。(自転車2台目を買う楽、贅沢も頭になかった。)
 スイスに節制堅物の雛形が見つかったのである。ダーバンスーツというのもあったが、ウーンマンダムというのもあった。笑う人がいても奥深く秘められた壮なるものを感じ取る人もいたのであろう。
 反則社会に自分が偉いと思ってかよく人を嘲笑う人がいる。
 上の家の宗家の者は誰一人、威張らない、陰口さえ利かない、寡欲で善良な人達であった。貧苦病苦続きで人の世の趣味も持てなかった。