組織活動過去情報


1. 抱え込んだ日米外交問題が鬱陶し過ぎる。女性がわざとらしく失神する。いやたまらんな、晴らしある日まで、その国の者にその忌まわしを代行引き被っていただこう。上がるまでしばらく米国土を留守にしてくれ。
 なかなかアメリカ合衆国が舞台である。


2. 湯田町に渡来した鹿児島人のいわれ。
 遺児が来たと言われる。田んぼを分けた上の家に、家人と入れ替わりにかいくらか似通った色黒の子供が送られてきたようである。江戸時代の事であろう。
 京都から維新仕事の一端に派遣されていたという「新」家でも、自分達の移転は江戸時代中のことだと話していたという。維新の為、国造りの為だったのである。
 また流人的境遇から歩いてきた人もいたと想像される。その家筋の者かどうかは確かでないが、その場合ビラ散らしの咎で城下追放の微罪に処された一家のようである。
 湯田の隣和賀地区は親鸞直弟子由縁の土地で真宗門徒ばかりで溢れていたはずであるが、今市内には禅宗の寺しかない。鹿児島にも似たような事情背景があった。もしかしてそのビラは鹿児島でも盛んであった浄土真宗の秘儀に使うべき参りの仏的な版画紙であったのかもしれない。信心深い人間性の証拠はある。


 以上なかなか参考になる一家の出入り事情である。


3. さすがに、「濠を浚え」と誇らかに直接的に類なく命じられたものだという。
 勇気を持って従う者もなく、その後、組織はかえってだじゃれに、「男の子女の子」と歌うか弱げな出で立ちの郷ひろみさんを仕立て上げてブラウン管に送り出していたのかもしれない。地下は江戸時代からも途絶えなく今の今まで、離れることなく構い続けてきたのであう。


4. レボーターは東京に出て神宮裏の企業の宿舎で好い加減なガードマン勤めをしていた。他にビル清掃員とか地下的な職場にいることが多かった。テレビも最後まで買えないでいたから、あの頃の日本国繁栄期の歌手歌謡曲ラリーの恩恵に与るという国民共通の経験の外部にいた。テレビは幸せを作る機械だよと薦めてくれた人がいた。寒過ぎると道を曲がってしまう。テレビは取り敢えずほっとできる家族みたいなものである。


5. 陽水の「傘がない」とか「氷の世界」とかを漏れ聞いたことがあった時代であるが、この頃に地下と出会う。「手紙」というのは、レポーターが警察に訴え出て書いた手紙の事なのかもしれない。友達もいない者の珍しい社会活動である。23歳であったか。それから地下組織自覚の一瞬たりとも抜けることのない生涯が始まる。
 地下告発は運命であった。明治維新期にも掲げられ課せられていた。地下に今誰がいるかの問題ではない。
 地下組織告発は現実のものとなっている。他に正しい決算に至る道はない。


6. 身一つで来た者はない。すなわち皆洋水している。西洋人と混血して鼻が高くなっておる。


7. 上の家ということでは、野球帽を被るほど若造であったという表現があったようだ。被る物が何もないというのでなく、本家、神社の森の値ぐらいにはあったという。