戦後奥の方から上の家の者を抑えようという指示が


 無連絡的に断続的に出されていたという。組織を相手にした国の洗いというようなものではなかったようである。鹿児島では古くから評判の悪い方角があった。その筋の者が上の家に入っているという事であろう。何でイミの者が一番になる運動をする。全然納得できない、という事であろう。
 結局は、土下座して入り、自分の趣味喜びもなく、作男然として黙々と働き、運動勤めに借りていたような挨拶をして自ら花を咲かせることも無く66歳の生涯を閉じている。実子を持つことも無かった。
 実は上の家は終戦時まで長く薩摩土着の者の家であった。海外的血脈とは無関係の家であった。かえって集落内では珍しい方でなかったか。〆て、運動遺児と一般武士二人が寄せられていたという最終説明である。
 コピー係りの母に当たる者には、やはり鹿児島土着の血筋もあるが、実家父親の方からホンコンルートの流入が考えられる。このようなことは広い日本国内で今や普通にあり得る事ではないだろうか。
 母は旧家実子である。この家にはお役人様不十分の越訴注進役指導者を勤めた経歴があり、藩に咎められ青森大迫と長く流されて帰ってきた先祖の記録が古文書に残っている。
 上の家は代々犯人を自警的にマルぐ家であった。かつて母の実家は右衛門を名乗り、上の家は左衛門を名乗っていた。それなりの名誉を誇っていたのではないだろうか。