ショー屋とは庄屋~藩士に上れなかった為の呼び名か 

 上の家は本来、藩往来の街道沿い、峠越え最初の社を控えた地域一番の旧家であったことは間違いがない。 倉のストック品、小豆などが近隣の者に盗まれ、追い掛け縄を掛けたという記事がある。 大きな農家であった跡がある。 明治の始まりにはもはや零落していて、今や推理の対象である。
 1730年頃、仁左衛門の家屋敷の取替えがあったという書き入れがある。 アン女王のテーブルは1700年頃。 スタート時点からの途切れないシナリオが読めてくる。
 ショー屋でいるのだよ、あそこ、というのを早とちりして、中島みゆきさんや吉田茂大久保利通元総理のルーツまで賑やかに日本国土に移植されていたようなことを書いていたが、誤りであったかもしれない。
 ショー屋というのも、バーナード・ショーと親戚関係あるによって言われているのかと思っていたが正しくはなかったようだ。 あそこの同級生の家と同じに、単純に庄屋となり、藩士となるべく期待されていたのであるが、不発であった為の呼称であったと推理される。 ジョージ・ワシントンまで用意した奥深い流れでもあるから、最後の始末仕事にはもったいない、日本国史に残る偉人になってもらいたい、という方向転換があったのかもしれない。
 M市発の人々は大きく発展し、広がっているようで、先の想像も強ち誤りではなかったのかもしれない。 ここの発展を識ったによって、あそこショー屋だ、と言われたのであろう。 (誤りであったならお詫び申し上げお許しを願い上げます。)  庄屋になれなかったが、立派な演技人で揃っているじゃないか。 「塩屋の岬」 「ショーバイ、ショーバイ」
 久方に組織から声が掛かった時、主人は上方を大満腹ショーバイをして歩いたという。 その心底を想像して書いていたのであるが、書籍を読んで漢語に通じている人のようであるから、計算も無く単純なショーバイ人たるべく身を投じたものとは思われない。
 ルーツは、ワシントンを遥かに遡り、ニュートンダ・ヴィンチ、と遠く繋がるある家系であったと推理する。 リンカーンもかと聞くと、そうだとは答えて下さらない。 やたらな情報源ではないようである。