3000年運動の予約とその実現、李白、杜甫、芭蕉。
「日中間」にかぶさるいくつかの懸案が仄見えるようである。 一つにある種の詩人の予定があったと思われる。
呂律。 吐く一息一息がすでに完成された韻文であるような、一管の笛そのもののような詩人の登場。 架け橋たるべき 「呂氏春秋」。
組織は自ら秘密を明かさないから、その予約が遺産として受け継がれていて、近世にもすでにその正品たる詩人の約束が果たされている事を教えてくれない。
一息、一笛のような韻文と言ったら、松尾芭蕉の俳句である。
酒を飲まない詩人、という条件が付けられていたと想像される。 杜甫は酒を飲まなかったのであろうか。 その詩聖たる実績の上に、更なる後継として、酒を飲まない詩人、芭蕉の葉のような、尺八の一節のようなふさふさとした簡潔な詞藻。
杜甫、なるほど芭蕉は徒歩で旅行く吟行詩人であった。
すでに、中国の詩人が勢揃いしているちょうど同じ時代に、日本でも、最初で最後の正格詩人とも呼ぶべき万葉の歌人達が並び立っていた。
うーん、絶句、律詩の国に、海老、蛭子の国には、一竿の和歌の韻律か。 そして更に蜻蛉しまねの国に似つかわしい響き、バセウ、ブソン、イッサが続く。