上の家は1700年頃にも護摩壇を焚いて修法中であった。 「葬式中か」

 以後常に一部、葬式中の接待を受け続けることになる。
 K市移転直後にも、上記名家の対応に、葬式案が出されていたという。 しかし係員二名のアイディアに過ぎず、他の関係者はその応対でいいのかと疑念を抱いていたらしい。 組織からの腹中案に過ぎなかったのであろう。
 S氏隣家に葬式用の祭壇みたいなものが置かれていたらしい。 護摩壇の真似なのかもしれない。
 実に似た儀式、作戦のお仕着せが、絶え間なく届けられていたようである。 護摩壇、護摩壇、護摩壇と、相当に印象深かったのであろう。
 縁あって清澄寺別当様が当地に訪れ、隣家が葬式中作法なのに驚き、止めろ、と一喝したことがあったという話を聞かされたことがあった。
 ところで、護摩壇中の修法師家子孫は1730年に上の家を追われている。 
 南部藩の仕置きに違いないことではあるが、誇り高い修法師家関係の者は無念でならず、川崖っぷちで侵入者に肩から手掴みに襲い掛かった事があったという。 なんと、その時の様子をヒントに、シャーロック・ホームズとモリアーティ教授のスイス崖っぷち対決のシーンが、人の世の永遠の記憶にも創作されたのではないかという推理がある。 恐らく不意打ちして川に落としたかったのであろうが、真っ逆様に落ちたのはかえって修法師家関係の者二名ではなかったのか。
 この間の上の家の信心深い母と娘が、だまされたみたいにその仕置き移転の見ず知らずの農家の墓地にまで引きずり回され、「先祖二体」 の霊を拝まされたというのは、組織だけが知っている計略業の仕事であったのだろうか。 大阪に行ってまで、海のような所の水の底に先祖が二体弔われずに無念になっている、と聞かされていたものである。
 組織の悪巧みに、二名、二名、というのもあるが、ここに発したことであろうか。 ロッキー山頂に載せた箱二つのような、コロラドとワイオミングが表しているナポレオンとワシントン二大英雄というのも、この川崖っぷち事件から去ることちょうど半世紀後の達成であった。 
ナポレオンとワシントン値の二体であり、南部藩仕置きであったということになろうか。

最早上の家でさえ島津藩仕置きの世の中となって、戦後に頼まれたのがこの間の上の家の父親であったが、これではと、後ろから先任家庭の娘さんの肩に後ろから手を掛けたのではないかという疑いがあるらしい。 ところが一晩の話合いでかえって兄妹の仲になってしまったという。 つまり、気合の問題でもあろうが、実は鹿児島から来た日本人国民に変わりなく、「高校生」 であった、という事で決まったものと想像される。 自分の母親でさえすでに鹿児島系であった。
 島津藩民移動運動は、本来他民族的なものでは一切なく、真実は明治維新対応島津藩命令とでも名付くべきものであった。
 後ろから手掴みして間に合う計算など一つも立っていなかったことであるが、1730年の崖っぷちの修法師家関係を代行演技して登場させられたということにもなろうか。