沢内の志賀来山から遠野の六牛山までの線分の中央点で行われたと思われる雲南水田儀式。

 雲南という地名は、他に岩手県内などにいくつかあるが、極めて珍しいものである。
 雲南神社が川の上流にあって、盆地状の水田地区を雲南と呼んでいたが、今もあるかどうかは分からない。 (島根県雲南市という新市名があるがペテンみたいなもので、単に出雲市の南にあるから雲南市だというのである。)
 緩やかな段差を利用して水田工事が行われたものと想像される。
 ここで呉の遺民ということを考えると、雲南から江河口までは一瀉千里、かつて雲南において水田技術の獲得があり、下流域での発展があった、という記憶が儀式の主要モチーフとして働いていたのであろう。
 
  これは一関の八雲神社。 (岩手の街道 岩手日報社から)
  棚田の精魂雲南にあり、というような中国雲南省の棚田の光景。
  水田の技術はこのような段差地で、雨水を蓄える工夫から始まったものではないかと考える。 (インターネットの写真映像を拝借)
 とにかく、日本ではインドの米文化言葉が古くから使われてきた。 閼伽。 うるち。 他にタミール語との農業単語の共通性が数多く発見されている。 この共通性をタミル人が海上船で渡ってきたのか、という推理が立てられていたようであるが、上記北上市雲南地域の古代の事跡が示しているように、水田は雲南を発して一瀉千里、呉の国の基となったと考えれば自然で可能なこととなる。 インドから揚子江上流までもまた水の便で困難ではない。
 沢内遠野の線分を平行移動した、飯豊連峰ラインの西端を信濃川河口としたのも、水田の西方渡来を示したものと考えることができるが、北上市雲南神社から新潟に引いた線は、やや中国の雲南を逸れているようである。 想像に過ぎるかもしれないが、緯度距離の大きい測量は難しかったという証拠になろうか。
 雲南地方との食文化及び神話の共通性も昔から不思議なことの一つであった。
 この文化と民族の渡りルートの推定は、西蔵儀式とは丸っきり別個の事と考えるべきであろう。