同じ街道の右傍の宗右衛門の家にも、その樅の木の兄弟が立っていたという、

その本家筋の話と古文書証拠の見聞を宗右衛門当主の方から聞かされたことがあった。 和賀氏の時代が終焉を迎えてからの入村であったと思われる。 樅の木の兄弟旧家はそろって地域の村役人となっている。 樅の木は400年の樹齢を数えているはずである。
 宗右衛門の前に一軒、流人と思われる和賀氏家臣の名前を冠った家があったそうで、そのため草分け農家とは言えず、また武家の流れを優先する村役採用の環境において、単純にこの地域を代表する家にはなりきれずにいたと思われる。 家臣の名の家は街道から身を隠すように山を背負った所に家を構えているが、宗右衛門の家は、対称的に反対側に構えていて、その背後には神社と墓地に好適な森山が並んでいる。 この将来の屋敷恰好を、宗右衛門の先祖は好んだのであろう。
 すでに途絶えていたのであるが、この宗右衛門の烏帽子名を、一代置きに、しかも嫁取り前の襲名によって、代々、当主の名としてきたものだという。 嫁取り前の元服とは珍しい伝統である。 推定であるが、その上に、烏帽子名親となる家の娘を嫁に貰うことがあって、その孫に授けられた名として宗右衛門の襲名が行われたのではなかろうか。 その後、そのいわくを込めた襲名の儀の踏襲ということになったのであろう。
 代官様不満足という越訴行為で村を代表したことがあって、五戸、大迫と長期の流刑に処されていた記録が、町の郷土史に載せられている。
 街道両傍らの、共に貫禄ある家柄の家であった。 山伏仁左衛門の方が古かったことになる。
  涼しげな南本内川アカシデ林の紅葉。 (岩手日報社 岩手の樹木百科 から) 
  女神山ふもとにある 「深山の傑作」 降る滝。
  清らかなばかりの女神霊泉。 (岩手日報社 岩手の20名水から)