世の中に昔から、国道県道村道間道と道の順番があるが、

本内部落は国の始めからの国道沿いの要衝、交通安全祈願の社地であった。
 本家の屋号は仁左衛門片岡仁左衛門とは、このテラス台地上の旧家をよく指差している。 発端において、坊の名を持つ藤原氏の勤め人であったと想像される。
 この間まで神社庁所属の村の鎮守様であり続けたが、江戸時代には要衝の勤めは国境の番所だけに置かれて、神社の意義は忘れ去られていたようである。
 倉に入った川尻村の者を縄にして番所に届けた記事が見つかっている。
 1730年、栗の木台の土地と家屋敷交換。 これは藩の仕事である。 無理な取替えでもなかったようである。
 藩内の近辺の各地に同じような処遇の家があって、同じように、藩と一緒の水田開拓事業を行ったりして、村役や藩士に上っていることがある。 何軒分の移入人仕事であったかは定かでない。 村長、市長、大学教授、国会議員、日本国の偉人と今日に及ぶ大発展の一つの基となっているようである。