サンファミリーの先祖の家である朝原さんにこそ上の家は多くの因縁を持たされたようである。

 と言っても、上の家は地下活動的に操縦されてきただけなのであるが。
 他のどこの家も顔を見たくない程に上の家を軽蔑し去ったのではない。 前主人が言っていたといわれるように、段々には 「いい状態だな」 という評価で定まりつつあったようである。 「アイスピッグ」 で、年から年中ピーピーであるという背景においても。
 苦和 (桑) とか、クーシーあるいはシジミとかという表現は、この人から出た言葉なのかもしれない。 なかなかの勤勉節制の生活である。 おとなしいが、まじめで清らかである、とはこの頃の一般評価であったと思われる。 ストックしている。 
 前代の主人は英単語を使う人であったようだ。 組織の働きにも通じている。 施設児子孫をも一族意識で眺めていて、その活躍を誇りに思う父親感覚があったようである。 皆出て来い、月見をしようではないか。 ここは、広い空で見る国見山の月が名物である。
 組織は、すでに貧しく病弱な上の家の父親を、玄関先で変わることなくたたき続けている。 正しい勤勉生活の後の正しい挨拶が必ずある、と信じていたようである。 これは十手旧家を二条城手配で任されていた家の一軒と思われる、前隣りの市橋家にも伝えられ、市橋家の前代はこれを、この朝原家の前代の人が亡くなってからも次世代に向かって主張したものと思われる。 必ず逃げない者の挨拶があるはずだ。 散々に踏みつぶされてから、でんぐりがえすのだな。
 次代の当主は、施設児子孫に対してファミリー意識を持たなかったようである。 実線を引けない人達の活躍は自分達と無関係である。 ここでは、すっかり抜け上がる、という道しかない。 そのようになりつつある。 世間も。 正直らもその気でいる。
 できるままに上の家の弟を泥舟にしてしまったが、後は擦れないように離れている、という次代次兄の行動があった。 律儀な挨拶に訪れる人であった。 一つ父親の信心を継いでいるぞ、という義理立てがあったと思われる。 (後ろの小さな児の手柏開くのか。 二様あるとは何のことか。 買わせられたも知らないでいる。)
 上の家の兄に何をなしたかということは、よく分からない。 差別発言に怒る夜々というのはあるようだ。 ラジオがある、とわめけば家族も泣くことにはなる。 後で役に立つことか。 
 後に長兄当主の方からも、市橋家の発言は父親の言うがままの事だ、父親の心は前隣りの駅長さんに置いていたということだ、 「分かって」 いるのだ、という意識的な表明もあったように思われる。