今回の薩摩処分に対応した京都始末会議協力は、幕末期の仕事であった。

 この時、上の家相続に用意された人間は、山田、山本、坂本の三人だけであった。
 上の家長男として正面上がりした山本 (こんな子供預かるの嫌だよ、と愚痴っていたと伝えられている。) に坂本縁の娘が紹介された。 娘の名が里見京子であった。 今も子孫がおられ、その一人と同級生で並んでいたことがあった。 明治維新期であれば、もっと白面であったろうという考証によって、歌手の坂本冬美さんが登場しておられるものと思う。 里見京子という時、よく思い浮かぶのは田中好子さんのお顔である。 
 「若い二人だよ、二人してがんばれば葉も茂る」 と語った京子さんに、山本は 「俺はお前と生きていけないな。 ハイカラな嫁さんはもらえない」 と固く断ったというのである。
 里見幸太郎、という氏名が (男女逆であるが)、京都始末会議時点での株の種であったのである。
 後の世には山田の嫁を取ることになる。
 大まかな思惑は以上の如くであったようである。