時代は下って、明治30年頃に、上陸経験者の子孫ではなかったかと噂されている二人組が、みちのくに派遣されることとなった。

 一人は坊津経験者ではなかったかというのである。
 枝にこびりついていた半透明状のものを指でつまんで、口の中に入れ噛んでいる、その姿が珍しかったようである。 
 光、光、光、とシダミを指さして見せたというので、今の光電話があり、歌があるのかもしれない。 これを人間の粘液みたいなものと勘違いしてはいけない。 鼻素という変な言葉に発展してしまったようである。 決して光は鼻素ではない。 枝に付いていたのは鼻素ではない、直していただきたい。
 中国の蘇武の子孫であり即ち匈奴国の姫を母系先祖に持つと言われている、この人のそれらしい顔の一番の特徴は、しかしながら南九州人共通の鼻の大きさである。 鼻の大きさで選ばれた人、と言えよう。 
 そのこころは、鼻祖たれ、ということなのである。 世界のシンガーソングライターの鼻祖。 (吉田拓郎氏がフォークソングの実作者がここにいる、と称えておられたのを思い出す。 光、光、光、と音を立てれば皆、後の世の世界のフォークソングの原因となり、性格を決定する。 一人一節語りもの。 人生を語らず、とか贈ることば、とか、寂しい夏、とかの語調にジャンルを囲うこととなる。 フォーソングとは元はそういうものではなかった。)  
 後に、この人を模倣するみたいに、熊本方面から日本国のフォークソングの祖一団が現れたものと推理している。 応援類縁人は少なくないと想像される。 霧笛が俺を呼んでいる、と遠路はるばる訪れた赤城敬一郎とか。 全員西洋人と混血していて鼻が高く、美顔であるところに特徴がある。 フォークソングの祖はそうでもないが、顔は四角に近い。 鼻祖本人の最大の欠点を匡正して現れて下さったということであろう。
 古いいわれについては分からないが、この人の事を国道無敵と呼んだのは、鹿児島でのことではなく、みちのく湯田町道路上でのことであったと伝えられている。 ずいぶんと後の世の事のようである。 
 結果的には上の家の弟系列を残すこととなるのであるが、ハル、わずかに一人のあまりにも青白い人生であった。 (妹さん方は、下記の仙台の伯母さんと同様、村内他家の私生児子孫であったと思われる。)
 もう一人は、日本を縦に往復して東京に帰り着き、後に有名人となった方である。 遠路往復の経験者であったのか。
 湯田町では子孫は残っていない。