徳川家康の在世は未だ現組織未生の世界にあった。

 従って、残されている言葉のメモは、すべて先人組織が現組織に申し継いだものであって、現組織が当事者としての自らの経験を述べているものではない。
 「一目散」 という噂を立てられていたという。 「逃亡兵」 としての身の上を、誇り高い武士仲間が評した言葉と推理される。 起伏絶え間ない戦乱の世に、敗残逃亡の身の上の者は数知れなかったと思われるが、後に三河の地を領するまでに至った徳川氏の身の上を振り返った者がいて内輪に漏らすことがあったのであろう。
 「二里」 これは家康が地下組織の実力を見せつけられた時の家康自身の言葉なのかもしれない。
 「二里先の道筋を言い当てるんだよ」 地理に先んずる者は国を制する。 振り切れる相手ではない。 
 相手は天文測量の技術も有していて、それなくしては、久能山日光東照宮を直線状に結ぶと、なんと見事に富士山の山頂と新田の郡がその直線上に並んでいる、というような人に知られない国土作図は成り立たない。。 古くには、国史には何も記されていないが、伊勢神宮はちょうど飛鳥の地の測ったような真東の位置に座していたりと、世界組織の地球的測量技術の実力についてはすでに何回も触れてきている。 秋津島根とは日本をトンボに見立てた表現であった。 トンボの頭が北海道であった。 
 無下にできない地下組織存在であった。
 更には推測の領域であるが、城の建築に小天守を伴う、という契約の負担もあったのであろうか、という疑いも成り立つ。