紫モクレン以後の上の家は昭和33年に北上市に移転する。 その土地の名がまた孫屋敷。 近くにやはり安倍氏が陣を張った跡があるらしく、古陣場橋という名の橋がある。

 地名は安倍氏由来のものであろうが、当時の地域の農家の家屋敷は美しい白壁建築であり、庭も珍しい程に立派な、名だけの屋敷村ではなかった。 邸を構えて上の家を迎える算段であったと思われる。 この段階においては、組織は上の家に対してかなり皮肉なのである。 村人達は上の家の建物を箱と呼んでいた。 薄いよ、家からしたって、ちゃんと育つ用意の家ではないよ、とキミさんが語っていたという。 建屋というのも、地域関係者が多いエリート社員が上の家を嘲笑して使っていた言葉なのかもしれない。
  今は二階を白く塗っているが、薄い、箱を積み重ねたような 「建屋」 建造物である。
  堂々とした邸建築を前にして、片隅に置かれたようにいかにも小振りで、風に吹き飛ばされそうである。 
 遅くとも室町時代には要路の社家であった、という古株家格の事実は回復されるべきである。 1700年以前が忘却されている。