仮説・仲代氏は前郷人持ち出しの南部氏子孫であり、久能木氏は二条城認定の派遣鹿児島人と南部氏の子孫である。

 前者は日本と世界の歴史上の偉人となっているが、後者の待遇はよろしくなかったようである。 障害者となって施設に入っている人もいるという。
 周囲は派遣鹿児島人を見直す必要がある。 大名様方が集まって 「千年の事」 の千秋楽を期した紫モクレン新選組の一枝なのである。 戦後の自民保守本流という言葉もこの二条城の陣会議に由来している。 (当時世界が見えてある程度の落ち着きを得て、国家の一大事に指導力を有していたのは薩摩藩ばかりであった。 長州は薩摩に抱えられるまでは定まったヴィジョンに至っていなかった。 世界が見えていなかったのである。)
 この一枝こそを昭和天皇陛下様は非常に慶ばれ、日本の一番の清酒山田錦とせよ、と命じられたのである。 この事実を請け合う造り酒屋さんが必ずいるはずである。 派遣鹿児島人の先祖はある意味で武家社会の刀と対等に並ぶべき勇気を示して、長く流人の身となっていたようである。
 だからこそ、八幡の美人宿でなく、一ノ蔵邸での金襴緞子式がセットされたのである。 逆狙いの極端な嘘を吐いたのではなかった。 「内式」 をしたかったのである。  
 どうしてその鹿児島人は子供を川に投げてしまったのか。
 その女性は学問もない若年者であったが、自分が、幕府の合意を背景にして薩摩藩から送られた身であることを自覚していたはずである。 世界の、とまでは言えないにしても、一国の一大事に仕えている、という意識があったはずである。 国に身を捧げる義務観念の他何も頭になかったと思われる。 後で気が付いた時は、いつまでもいつまでも歯ぎしりして残念がり、気を失った者のように立ち上がることがなかったと伝えられている。 身を捨てる天下と道徳があったと言えよう。
 「くもりガラスを手で拭いて、あなた明日が見えますか」 という歌の文句そのままの、頭がボケてしまっていたのではないかという観測発言が伝えられている。 あるいは、前科持ちの先祖でいいのかと、将来を不安に思った言葉なのかもしれない。
 この鹿児島人由来の大現象が、田中派であり、竹下派の最大人数派閥であった。 小沢氏もなおその流れにある。 吉永小百合氏も石川小百合氏もその筋合いによる御登場であったという。 内式先行者に見習った、「子孫」 の母親としての陸奥下りがあったものと想像される。
 なお仲代氏について、グループの各上陸地が推定されるようである。 太平洋側の海岸地、茨城、神奈川、静岡、高知。 仲代氏の仲間に、何故か倍賞千恵子さんとレスラーのアントニオ猪木氏の顔が思い出された。