王家、貴族たりとも元をただせば何であろうか。 一例として、世界最大の王族と目されているブルボン家を遡ってみれば、

ローマの貴族、神話の神々に繋がっているということにはならない。 パリ伯となって歴史に登場するウードの父ロベールの段階で、出自不明という学会の結論のようである。 世界の名族のルーツであるから、言い伝えなりと調べは尽されているはずである。 
 ノルマン侵冦時代の功績による、一武将の世界史フランス史における運命的な出世であった。
 これはよくあることである。 
 そして、ローマ王国建国の祖もユリウス・シーザーも、究極の祖としてギリシャの神の名を上げているのなら、それは作り話にすぎない。 
 漢民族の始祖と言われる黄帝でさえ人間である限り、神の子であるはずはなく、漢王朝の祖と同様、突き止めるなら一グループの長であったという事から始まる以上はないであろう。
 天皇家も同じである。 
 貴族の家柄の古さ新しさというものは、各身を立てることとなった契機の歴史的順番を言うにすぎない。 大名たるものすべて源氏平氏藤原氏の裔でなければならないという日本の伝統も、この順番を厳重に問題視することによる。 (しかしやんごとなき公達でなければ、物の数に入らない、というのは何かの日本史の呪いの一つにも思われてくる。 今日目にする所の七重郎達とそっくりではないか。)