昔は回遊していた。

 立場の難しい初期 (安倍藤原) の頃の、一団各家系の存続の為に立てられた方策のことと思われる。 全くの推測であるが、二は澤内、三は山口と展開していたのではなかろうか。
 あくまでも800年代のことと考えれば、はるか後の上の家着座を、その伝説的な方面展開と結びつけることはできないのかもしれない。 上の家の位は、稀にも和賀氏下の西口神社修法師であった。 和賀氏の古文書に扶持を与えていた事を示す記録があるそうである。 東口神社は有名な新渡戸稲造の先祖の嫁の実家であったということからも、当時の修法師系神社の一帯に有する信望にはなかなかのものがあったようである。 (持ち場を決して離るるべからず、と将軍様の命令を永遠に身に帯びているような一家もあって、やはり和賀氏勤めであった。)