蒼然神社推論第二
神社についてのもろもろの俗説と真偽を争う段階にはない。
802年前後の田村麻呂の征服地は雫石川以南までであったようである。
手元の地図に拠れば、その後850年頃まで征夷前線は北上している。
蒼然神社はその田村将軍後の征服地内にある。 860年以後に建立された社であると推論することができる。
年表を見ると、その頃は富士山や鳥海山が噴火し、今回と同様の陸奥大地震大津波があったと記されている。
京の鬼門を守るのは延暦寺であるが、その鬼門方角の外部が不穏である。 その時に田村麻呂の蒼然神社が思い出された。 あるいは本当に馬の魂の迷いを思い感じたのかもしれない。
裏鬼門の方角に石清水八幡神社がある。 応神天皇をご神体として武門の信心を一番に集め、宗廟二つの内の一つにまでなっている。 この神社名と紀氏系神職者が陸奥に送られたものと想像することが可能である。 ある程度重要な願いの立てられた社の建立であったはずであるから、社家の外からの濫りな職員の派遣があったと考えるべきではあるまい。
神職者の系統は秋田方面では藩主に上っている家系もあり、岩手方面では紫波御所の重要家臣として名を残している者もいる。
湯田町本内神社神職に仕えていた者もその一端にある者であると伝えられている。