その中代氏の発言が伝えられている。

 私は朝から勤めていたのだが、彼はその時路傍にいた。 私が頼んでも、運の悪い不始末のせいで、野に置かれたままであった。 漫画を描いたりしていたという(これは別人の言い伝えである可能性がある)。
 古代安倍氏奥州藤原氏の時代以来のメモランダムである。 遠い昔の同類の身の落ち着き方についてよくも忘れずに記憶に残してきたものである。
 結局は遅まきながらも彼も所を得て藤原氏の勤め人になり果せた、という順番を言う話であったようだ。 
 藤原時代奥州において蒼前社下り人とは稀覯なる巡り合いの人々であったと思われる。 もしかして社中の人ではなく田村将軍軍団兵の居残り組ではないかと想像する人がいる。 ケガで戦線を離れ山中湯治しているうちに軍に去られてしまったという話がある。 県下各地湯田澤内村内にそのような旧家が少なくないのかもしれない。 田村という苗字の家が点々とあって謎に思うことがあった。 きっとその類ではないのかというのであろう。 置き去り兵というのはどこにでもある話である。 そういう家をきくらげ呼ばわりする東北の地域があったのかもしれない。 
 彼については当時から世界史地下が取り付いていたということがあろうか。 伝え話が妙に詳しい。 一般人がそんなにまで記憶されているものであろうか。 しかし、軍団兵といえども名誉ある記憶には違いない。
 とにかく野の姿をみることがなくなってホッとしたような口振りが伝えられているようである。
 折角の甍と白壁にも夕陽が差さない、とよく口にしていたのであろう、さぁ今度は夕陽が差す、とちょうどの西口神社の勤めに置かれたとさ、という珍しい、物語のような語り伝えである。 信頼できる人間でなければ任されるはずのないポストであった。
 どこかに残されていた漫画の姿から創造された部分があるのかもしれない。 アーウーと音を返しては、首を左右して歌を歌えなかったというのは、どこの記録に由る言い掛かりなのであろうか。