一方天保の大名会議というものがあって、上の家には保守本流の日本人を置くことが要望される。 

 (しかし組織の対応はなかなかストレートではなかったようである。)
 迎え入れた鹿児島人の兄と共に、水田面積の復活を図る。 巡りがすべて所有地であったから、拓き甲斐があった 山田三角田ではあるが一町歩の開田が達成され、誤りなく花巻の登記局へ届け出が為される。