恐がらずに読むべし、改訂版・白木野右衛門家覚書

 先述の「無辺人」あるいは the infinitely グループのルーツは、すべてかどうかは不明の所もあるが概ね白木野右衛門家に到るようである。
 自分の出自に関心ある人が世界中におられると思うので、ここに大胆な鑑定評価を報告申し上げたい。
 イラクフセイン将軍も関係者であったのか、生涯の胸奥をテレビジョンを通じて極東の島に届けられた。 我は白房の美剣を掲げていたのであるが、やや立地するところベイスンであった。 将軍も実は西洋諸国・アメリカ国土におけると同様、自称契約して歴史に登場しただけの関係者であったのかもしれない。
 右衛門の家は、農家ではあったが、村役人として古文書に名の残る家柄であった。
 以下右衛門家の孫として、組織の電波情報でなく、私的に右衛門家当主から直接聞かされたところを記しておきたい。
 徳川の平和の世になって、ある旧家から三兄弟が西和賀の地に入植することとなった。 一人ずつ記念のモミの木を分け持って。 三家共それぞれの地域において重きを成す。 山元の家にそのモミの木の一本と思われる大木が残っていて、西和賀の地において唯一の全国順位を誇っている。 五位か六位であった。 さすがであった。 400年以上の樹齢である。 上の家の西神社にも和賀花北地域内においても高位に入りそうなモミの樹が立っていたが、このモミの樹の実生から生い立った若木を移し植えたものなのかもしれない。
 もう一つのお話に、右衛門家は一代置きに襲名式を挙げる家であった。 その襲名式も少年の成人式というのではなく、婚儀前日に行う独特の意味内容を秘めたものであった。
 さて古文書を開くと、右衛門の息子あるいは父親の名が与三衛門となっている。 字面上、右衛門と与三ではどうしてもちぐはぐで意味を合わせ難い。 
 以上を解釈するなら、右衛門は二代目において、娘に澤内開村伝説の登場者高橋氏の子孫を婿に迎えて、高橋の苗字を相続したということにならざるを得ない。 婿は三男坊であった。 
 高橋氏は肥後の菊地城にいた武士であったが、木曽の義仲との戦いに敗れ散じて澤内に分け入る、という経歴が想定される。 村開き伝説に記されている年代が歴史の事実と前後なく符合している。 ルーツを同じくする田村麻呂の跡に寄ろうとしたのかもしれない。 田村麻呂の子孫であることを名乗る田村氏も後に伊達氏と縁を結び、北境の支藩一ノ関の城主に与ることとなる。 何故か徳川氏の覚えも良かったようである。 伊達氏に嫁入りした田村氏の姫の独特な面立ちは、松島の瑞巌寺に行けば間近にすることができる。 菊とか鞠とかという氏名や地名の由来は、この一族の際立った頭蓋骨的特徴にあったものと推理される。 
 かくて世界の右衛門の顔は澤内高橋由来の特徴を有することとなる。 最後の右衛門の顔は写真記録されていて、歴上の人物に再生されている。 アメリカの映画で言えば、クリント・イーストウッドでなく、クリント・イーストウッドの相手役。 日本の映画俳優で言えば宍戸錠。 冒頭のフセイン将軍もその似顔絵の例と言えよう。  
 地域の苗字分布を調べてみる。 西和賀は高橋苗字が断トツ一位の里であるが、平和街道近辺では希少となる。 白木野地区とその周辺では、それぞれ独自のいわくを誇るように別個の苗字を掲げていて、高橋苗字は元来右衛門家一軒だけという別風景が生ずる。 
 これは南本内川地域でも同断である。 本内部落では珍しく高橋苗字でそろっているが、これは新入家系が上の家家系の影響下にあったためと見ることができる。 高橋を名乗っている家があるとすれば、上の家との何かの関わりを推測することができよう。 
 かくて、白木野と本内の高橋家が稀にも並んだことになるのであるが、上の家自体の高橋襲名もまた澤内先祖との関わりによるものと推測することができるのである。
 江戸の世においては幾許かのお手伝い上納の功によって士抱えに与ることがあり、実際に平ちゃんの家が給仕人として古文書に記録されている。 その際には、右衛門の家にも一緒に子孫の為に古文書に並ぼうではないかと誘いをかけたそうであるが、その時の与三か右衛門は連れ立たなかったという。
 そもそも平ちゃん家の士格上りというものも、この右衛門家苗字帯刀を果たさんが為の配慮に由るものであったのかもしれない。
 何町歩もの水田を所有する大農家であったのであるが、日清日露両戦争の退役軍人であった最後の右衛門が酒乱事業家となって、その少なからぬ身代を債務のカタとしてしまう。 その乱れ方に関して、地域の地下グループとの因縁が噂されている。 地下組織員との軋轢はよく話に聞く所である。
 ところで、何故白木野の旧家が Japan 運動の本家とされたのか。 
 第一に、英運動は旧組織の一大テーマと認知さるべき、東方より出ずる聖王案を引き継ぐ。
 第二に、聖王は聖徳太子として実現され、次に陸奥地方にあらわるべく、ベクトルの存在が認めうる。
 旧組織は完璧なる人間像というものを有し、その人格は必ずや平等精神に満ち溢れていなければならない。 世界の宗教キリスト教においても隣人愛が激しく唱えられ、貧民病人に対する憐れみ極点に位置する。 仏教は調和のとれた慈愛精神に加えて、観念論哲学の論理訓練と奥行きの神秘性を纏った人類史の最高傑作であったが、極東地域の国々にこそ注ぎ込まれ、居住まいよく保存される。 聖王は、二清の名でも称えられる平和の祈願者藤原清衡によって実現される。 (真人なる官位名もみちのくに運び置くための制作であったのかもしれない。) 後に長く、真実に慈愛の精神を自らの人生の指針とする王者は現れない。 詩作においても実践においても仏教の博愛精神に燃焼した聖人の焦点像は、遥かに後の花巻の人宮澤賢治であった。
 第三に、奥羽山脈を見渡すと窓のように開いた峡谷の進路があり、進み入るとベネズエラにあるような小型のテーブルマウンティンが眼に入ってくる。 峠を下ると、貴種流離譚そのままに紀氏子孫の家上の家に遭遇する。
 第四に、更に街道を進みゆくと、白木峠に入る前に、初めて平地がひろびろ広がって見え、道が奥深くに繋がっているのが見える。
 街道から少し離れてやや高まった所に見えるのが白木野右衛門の家であった。 緑に覆われた端正な二つの小山を背後に控えている。 墓地と神社である。
 振り返ると、真正面、南方の岡の上に、三峰山がその頂に雪を被って白々と輝いている。 王様が被る王冠そのものであった。 ちょうどいい、この家を縁として、また単なる類似の縁によって世界史の偉人を無制限に溢れさすこととしよう。
 江戸時代中期、西洋では名誉革命の後、ニュートンライプニッツが聳え立ち、またロックが亡くなった後にバッハが登場しつつある頃の事と考える。  
The above sentences all by Adams & Co., the underground.
以下に、右衛門家子孫たるものの本来的な顔の特徴について述べてみたい。