右衛門家子孫の顔の根本的特徴といえば、その輪郭がペンタゴン的であるということであろう。 

 前回は、右衛門家が如何に誉ある高橋ファミリーの一員であるかについて強調説明してきた。 しかし高橋氏の顔の特徴は、松島の博物館で出会うことのできる愛姫といろは姫のそれのように特異的な輪郭のものであることも強調してきた。 それでは矛盾ではないか。 
 右衛門家の姉娘の家に婿入りした高橋家の青年が、自分の家の苗字を誇りに思い、改姓を断る意思を表明したところ、義父が怒って何だ高橋など、佐藤高橋馬の何だかというぐらい路のほとりにボタボタとありふれているじゃないか、とかと言って認めようとしなかったという話を聞かされることがあった。 高橋苗字に執着した青年の顔相といえば確かに特徴的な長大グループに属するものであった。
 どのような顔かといえば、皆さん馴染みの井上陽水さんのお顔をお借りしようか。 仮に井上氏を高遠氏の子孫として考えてみる。 高遠氏は高遠氏自体の特徴を有して、またよくテレビや映画で拝見することがある。 北上市の同姓の人とプレス工場の臨時工員として一緒したことがあったが、まぁよく苗字と共に顔の特徴の遺伝子が伝わっていることか、感心して思い出すことの一つである。 北上市と澤内とではおよそ400年か500年も以前に別れた間柄に違いない。
 どうして高遠氏から井上氏に高橋の顔の特徴が遺伝相続されたのか。 それがまた澤内通りの一大秘密事であって、「待ってらぞ、待ってらぞ」とその打ち明け時の到来があるべきもののように声を届けられることがある。
 井上氏事高遠氏は、「きっといい事だろ」と古くから西の家の担当に任じておられたようであるが、いつの頃の事か高橋氏吸収作戦というものが村に降って来た時には、これにも参加したものと想像される。 高橋氏の顔がすっぽり澤内村から消えて無くなるというケチな魔術であったのかもしれない。 ありゃりゃりゃ顔があるじゃ、どうせいかさま伝説だと思っていたのに、という。
 もともと高遠氏と高橋氏は共に澤内通りの貫禄として、江戸時代には最初から最後まで藩勤めを全うしてきた間柄である。 昔からの遣り取りはあったに違いない。
 とにかく「井上陽水」氏の父親である高遠氏は、苗字と異なって真実の高橋氏であったということが成り立つ。
 確かに高橋氏の顔は日本史と共に澤内通りに存在している。 
 すると右衛門家の高橋氏の顔は何処に進展したものであろうか。
 ここで、右衛門家当主が語るところの右衛門家由来と経歴の伝え話が思い出される。 江戸の世と共に西和賀の地に入った三兄弟であったが、白木野地区の場合一軒だけ先輩の家があったという。 和賀氏滅亡によって、高遠氏等と共に西和賀の地に身を隠していた磯上氏である。 これもまた、北上と澤内通りと遠く道を別け隔つといえども顔の輪郭の遺伝子は争えない。 さすがに大柄な横顔であった。 山の陰のような所に住まいを構えていたというので、磯の字を取ったものと想像される。 
 当主善通氏の右衛門家記最後の言葉が、この磯上家とは右衛門家はお互いの唯一無二のパートナーの如く頻繁に縁組を交し合ってきた仲だ、ということであった。 磯上氏はその姓名に依れば高遠氏と共に和賀氏の重臣の家系である。 長年月の重ね重ねの婚姻関係によって、高橋の顔も段々にペンタゴン的に変貌してきたということは十分に信じられる論理である。