上の家神職の者は紀氏の子孫であった。

 また文字通りに、貴種流離譚を地で行くような遥かな古い物語である。 (もしかしたら、貴種流離譚という熟語自体この上の家の物語によって発明創造された言葉なのではなかろうか。 藪入り、藪睨みという言葉が西神社集落いわくの造語であることが疑われるが如くに。 更に古くに遡る源をご存知の方はご教示くださるよう。)
 恐らくは900年前後に、石清水八幡宮より神官として岩手山麓に派遣される。 900年近辺には関東東北方面の火山の活動が賑やかであった。 
 最古の武将登場者であった紀氏も他の有名各氏と共に墜落中で、わずかに文人としてあるいは石清水八幡宮のような所に集中して、その血脈を保ち続けている状態であったようである。 陸奥での地位も田村麻呂将軍に譲り渡している。
 神官としては、天皇から賜った田村麻呂将軍の愛馬蒼前の御霊を巖鷲山に祀り、火山活動を鎮め王土の安定を祈願する役目の任官であった。
 神社の跡地をスタート地点として、石清水、高清水のような地名が波及していて、現在の地図に残されている。
 安倍氏の時代には京都からのライフラインが断絶して、生活の困難が降り掛かって来たであろうことが想像される。
 飛び立たねばならない。 (この難路を)行けない。 といった神官様の言葉が伝えられているという。 さぁ今宇宙へ飛んで行け、とか、いい日旅立ち、とかの歌の文句があるが、この時の問答を再生したものなのかもしれない。 見当では歌手お二人も元上の家の子孫のように思われる。 渡りの兄弟も登場していたのであろうか。
 遂に神官様と渡のグループは岩手山を離れ、平泉に到る。 見事ランデブー成功である。
 平泉においては順当にも、王命そのままに金の道の安全祈願の任務を拝し、仙人の山の麓西神社集落の西神社に派遣される。 現在地域紙に、仙人の山には藤原氏の先祖が祀られているという伝説が記されている。
 地域では旦那様と呼ばれ、尊敬を集め続けて来たようである。 時代が下ると神社も生活が苦しくなり、山蔭の仙人神社から、世界史活動をやらないかという誘いがかかったという。 その時の断りの言葉が、苦しくとも私は公家人、かつて殿上人たるものの子孫である、ちゃんと紀貫之という日本文化の先祖スターも出ているではないか、潜ることは堪えられない、というものであったという。 遅くとも江戸時代1700年以前の話であり、英王室下世界史活動が始まる前の対話メモと思われる。
 この上の家に、1720年代の事であろう、英世界組織が正面から、世界史300年の大計を背後にして、三億劫年にも渡る普遍大経典の執筆の話を持ち掛ける。 慎重な神官様も相手を見て、この大仰な万経典あるいは予言の書の約束を信じてしまったようである。
 その為には先ず神社の稼業が繁盛し、地域一番の名前が讃えられるようでなければならない。
 こうして西神社の前の参道に、提灯が連ねられ、小屋や屋台が並ぶ。 身を売る女性まで用意される。 「中の家の者は、未成年のように何でもハイハイと言って売春宿まで用意してしまった。」 最初に腹をすかしてしまった為の宿設けではなかった。
 

 今日はここまでとします。