平泉古都の人脈図には、おいそれとは記し終えられない一寸した奥行きがあった。

  このような短い地峡自体からは、河口の大きな半島や島々の形を成すエネルギーは生じない。 東側からの大奔流の跡であることは疑い得ない。 

 伝えられているメモそのものの客観性も疑われなくもない。 何しろ一千年近くも前の就職事情である。
 訳あって、蒼前社先発組の藤原氏仕官例は数少なかったようである。 葬祭官一人は確認されていて、後発二人連れの係官を任じていたと考えられる。
 館側は一応後発組を合格としたようで、儀式の庭を二人に貸し切りたい、という程の採用意欲を示していたという。 何と言っても戦後のみちのく奥地、人材不足という事情があったに違いない。
 とにかくメモには、儀式の際に、おそらく紀氏系子孫の者が一番大事な王冠の類いをあらぬ所に放置して、見え透いた白を切ったと記述されているという。 
 ここで推理が入るのであるが、先ず、置いたのが悪いというのではなく、置いた場所が悪かったということが確認されよう。 たとえば観自在王院周囲の脇道のような所に。 とすると、あるいは、その返答は本当であった可能性もある。 少しの間目を逸らしているうちに誰かが触ったかどうか、どうして見え透いた嘘とばかりに言い切れようか。 しかし、冠問題はここまでとしよう。
 葬祭官の他にも勤め人がいるということで、皆の前で鶏鳴芸を披露したお役人もいたという情報が入った。
 長嶋紀一先生が俺は戻れない、とおっしゃておられたそうであるが、これはどう解釈されようか。 もしかしたら遥かな世の、上の家の子孫仕官例なのではなかろうか。
 日本中の皆さんの古馴染み、檜原慎太郎氏の若き頃のお顔も、やはり紀一先生と同じような経歴によるものなのかもしれない。 氏は、太平洋一人ぼっちの決意で徳之島に張り付いたおかげで、その先祖の印をよく止めておられた。 他は、ぞうりを穿いたぐらいだよ、と言いながら、西の家の者の特徴がやはり滲み出て見えてくる背高グループとなる。
 顔の相似で言えば鳩山由紀夫氏。 和歌山縁と共に白木野縁もあって俺はツーだ、というご挨拶である。 蒼前社にいた紀人である、というのとは異なるようである。 
 上の家と西の家の者に似た顔は今も和歌山に大勢いて、うっかりすると間違えてしまいそうである