江戸時代における上の家の実態

  
 
 隣家のサルスベリの花。 

 われは(京都において)殿上人であった者である、とみちのく文化地下活動の仲間入りを断ったことがあったと伝えられている。
 となると周りの仲間内において、一人、いかにも稼業廃れたが如くに貧しく見え、相談客も減って更に祭壇祭器調度が光を失う。
 春日八郎に似た見舞い客が現れて、茶碗酒で飲んできたような事を報告しているという。 思えば氏は南部氏の誰かしらに面影が通じている。
 江戸時代の1730年頃まではずっと地域の鎮守神神主としてまた修験道修法師として地域の農民達に旦那殿と呼ばれ続けて、ある種の威厳を保ち続けて来たことが想像される。
 春日八郎としては、ここで岩手山麓の社神官であった紀氏子孫に見えることとなろうとは思いの他であったに違いない。 「生きていたとはおしゃか様でも知らぬ仏の−」 南部氏は、自らの領地の果て、隅々にまでサーチライトを飛ばして彼らの所在を調べ尽くしたものだという。 「もうこりごりな事をしたのさ」 どうしてか一番の功績者であった者の財産を奪い取り、その心を暗く揺り動かすが如き乱暴を加えたらしい。 最後には一族全員追い立てんが為の算段である。
 江戸の世となっては、もはや世の中は固まり過ぎて、両雄の虞など考える余地もない。 後に、関係者を所々で藩士に採用しているような話を聞く。
 春日八郎が本内紀氏の話を聞いて現地を訪れたのには、二三の重なった事情があった。