昨日大川橋蔵の懐かしい時代劇を観た。 その日、上の家の太陽は没したか、否、水平線以下に没しなかった、と新吾は判定した、というような映像メッセージが秘められていた。

 どうしてそんなに上の家の事を映画の種に仕込むのか、と憤りを感じている方もあろう。 訳もなく組織が300年も前に決めた事だから、言った方が早いのかもしれない。 世界史運動においては、殆どロゴマークぐらいの意味しか有していないモチーフ実体と言えよう。
 明治維新後においてある人数の登場者が出たことは聞かされている。 組織の施設から出た子孫達である。 これまで聞かされた限り極めて異例僅少の偉人達である。 森鴎外伊藤博文新渡戸稲造金田一京介、石川啄木。 反対の意見もあって争いたい方もおられるかもしれないが、ここら辺では取り敢えずご勘弁を。
 戦後俳優界では、長谷川一夫大川橋蔵が主役でがんばっている。 多くはない。 なかなか大陸人が勢ぞろいしてきた芸能界であるようだ。
 二人が出る映画の登場者パターンは大体決まっている。 江戸時代過去未来最悪のニヒル疑惑の瞬間シーンからモデル取材しているのである。 一人は高峰三枝子さんタイプ。 一人は特徴的に丸まっちい顔形のお侍。 頬ひげが黒々と特徴的なのが本人に近いようである。 食いしん坊振りを見せて野人毛皮姿の大男がTVに現れているが、武士の仁義もあっての御登場であろうか。 
 話せば長くなるが、一人は和賀氏時代の城主重臣の名に繋がる家の姉娘。 一人は南部藩重臣の関係者。 近藤と名乗っていたという情報がある。
 子供が出ることがあるが、少年虐待の疑いの被害者ともなりかねなかった高峰三枝子の妹高峰秀子さんのご本人。
 そして、時代劇の出演者は大体顔が顎が長くて長方形である。 1730年以後ずっと今日まで上の家の相続者であった、北上市の名家であり大企業家に発展している伊藤氏のお顔をモデルにしたものと想像される。 なぜか現地取材するとそういう立派なお顔に出くわす、というので役者がそろえられたのに違いない。
 
 組織はいきなり上の家の前に立ち現れなかった。
 大荒沢の和賀川南側河岸に運動専門員が住していたらしい。 真っ直ぐに上の家の下まで地下道が通じていたに違いない。
 すでに家族の乏しい家となっていたようである。 子供もいたような消息もない。 妻がいて京子という名ではなかったか。 
 田女になって周囲の農家を歩いていたという。 「うちの旦那殿はどうしても懐手でいなければならない人なのよ」と話していたそうである。
 ある晩にその妻が帰ってこない。 心配のあまり、自ら樹に登ったりして妻の姿を探し求める院主様であったという。 院の名は慧心院ではなかっかという一報が届けられた。 
 あるいは妻の顔はでこぼこしていて、日に焼けていたのではなかろうか。 記事筆記の者の同級生として、小学二年生の時に出会ったような気がする。 
 結局妻はいなくなった。 狐穴に落ちたのか。

 今日はここまでとします。 
 
 以下写真は藤原の里南側にある岩谷堂丘公園から。 近くに藤原経清清衡の跡として二清庵が建てられている。
 

 
               


         



      


 水沢方面の市街地が見える。 雨上がりの夕刻であった。