落人伝説一見


伝説そのものには平家というようなことは本来なかったものと思われます。
筑紫の高橋というのが伝説の核となる要素であります。
筑紫の高橋というものは高くて自慢になるものであったのです。
関ノ前にもやはり、筑紫の高橋を名乗っている旧家があると郷土の本にありました。
どの位高いかと言うと、大宰府の武官長官の子孫として近くのお城の城主を代々勤めていたぐらいだそうです。
源平時代には固く平家側に与し、平家物語にもなんと、義経が後で継ぐことになる判官職の高橋大将として一章に登場しています。
判官というのは今で言えば警察庁長官ということでしょうか。
平家が負けたから流れた来たのではあるわけです。


この高橋、元は大蔵と名のった、坂上の田村麻呂とか三原とか原田とかの氏族を抱える大勢力から出たものなのです。
さらにいえば、大和古代史にも登場する大和の漢氏ということになります。
歴史時代に大集団で南朝鮮から渡って来たと記録されている氏族が二つあります。
秦氏と文氏です。
秦氏などは、今の大分県に集住した時には人口の8割ぐらいを秦姓で占めていたといいます。
一族がまとまって移動するということは、更に奥に何かの由来があって一団性を保っていたのではないかと疑われます。
秦氏キリスト教原始の、それこそイエス・キリスト本人の親族者本流の由来ではないかという説があります。
秦氏の末は日本国中相当の広がりがあるようです。
文氏の場合、漢王家霊王の子の時からの分れであると言い伝えられています。


ついでに、集団でなくとも数え切れないほどの朝鮮半島からの渡来人が、日本国成立時代に活躍し混血したものと思われます。
この間天皇自ら、先祖桓武天皇の后が古代朝鮮の王家の出であることを示されました。
つまり、源氏の流れも平家の流れもみなこの王妃の血筋を引いているということになります。


また、日本国の先史時代、弥生人の主流は、漢王朝の武臣が半島の管理者となってどしどし半島に中国人を移住させたために、その時半島からどっと日本に渡って来た人達であるという説を紹介させていただきます。
主にこの二回が朝鮮半島からの文化的制度的技術的血縁的交流影響の盛大な時機であったと思われます。
大概、このときの弥生人の血が平均的に日本人の体質の6・7割を成していると言われています。