村上という屋号のコピーしている者の生まれた家について


江戸時代前期に、村上の仁左衛門の倉に近くの部落の者が侵入して小豆などを盗もうとしたが、追っかけて縄縛りにしたという珍しい記事があります。
この仁左衛門と、川向の北向かいの孫八とが家屋敷を取り替えたという過去帳の記事は、その百年ぐらい後の事です。
北向かいといえども川口南向きの落ち着いた、開けたシチュエーションにあったといえます。
コピーする者の母が、先祖慰霊の仕事にこの祖地を発見して歩いてみたそうですが、広いところがあったものだと意外に思ったような話ぶりでした。
江戸の世のことですから、恐らく親族間のやりとりとして特別に認められた珍しい、藩関与のご沙汰であったと思います。
南方に朝日山脈の腰部を見晴らす支流を帯して、西方には福島に抜ける柳沢道を見通す日当りのいいテラス地を、小国川をはさんで住み分けたようなロケーションであります。
夏には川を渡って行き来していたということで、古くには至近の隣家であったと思われます。
孫八は村上の家に来てから、江戸時代前期まであったと思われる惣村制の老の署名で、地域の古文書に登場しております。


集落の背景をなしている太郎坂次郎坂は今もそのまま村上の家の所有地になっていますが、家族が汗を流して墓地の移転を成し遂げるまでは、その坂の林の中にある鎮守の杜と真向かいに並ぶ丘の上、福島方面に西空を望んでほっとするような位置に、伝来の墓石が並んでいました。
この丘に立てば、ここが長島法師峠を越えてきて最初に座った人の位置だなと実感するものがあります。
岳川を渡るとすぐに村上の家の畑が続いていて、元は一家で一帯を耕していた昔を想像させます。
江戸前期にも、岳川の向かい側に点々と広く分家を構えていた形跡があります。


石山線を正岡子規が近国無比と称えた千枚平峡谷を抜けて、福島方面最初の小国川支流合流点、左側に、かなり広い川原があり、昔は機関車が黒煙を上げて走っていたものです。
また合流点手前、集落の東側の背景に、人目を引くきれいな台地上の丘が、小国川沿いに横たわっていて、その丘の上の平地は今、町の所有の芝生地の運動場になったり、高速道路のサービスエリアとなってレストハウスが立っていたりしています。
この間までは、この川原もこの丘の上の平地もみんなこの杉下部落の所有地になっていたのです。
レストハウスに上る時は、この太郎坂次郎坂を崩して均した道を通ることになります。


神社の杉林と屋敷跡の杉林は黒黒と国道からも認めることができます。