バイラテラルな構造


半島で、本屋敷の家の者と対応するような人間のエピソード作りが始められていた。


勢道政治のあおりでかなりの農民が流民となっていた頃からはじまったのであろうか。
日本と同じで、イギリス人の地下活動の始まりは思ったより早いものであったろう。
いろいろな引き立てや、はやり、風習、作法の地下的な誘導演出があったはずである。
その時々のポイントでは、今まで書いてきた、本屋敷の家と桂木野の家の場合の大掛かりな背景とそっくり同じに、仕掛けが回されていたはずである。


このイギリス人の地下活動に共通することに、見たぞ聞いたぞ、というスタート時の頭韻を、百年の運動の引っかけ鉤とすることがある。
そして、誘導的な証拠作りがあったであろう。


山平部落でも疑われたように、ある場合には、一人組織と通じている者がいて、内部から密かにある行動に誘っていたということは、おおいにありそうなことである。
それと知っていて、律儀に付き合いにも引っかかって、わざと出てきたということは、その時代の状況から各方面であり得ることだと思う。
そこだとちゃんと言葉を教えてもらえるとか、服を着せてもらえるとか、と頭韻なぞすぐに踏んだ人が多かったと思う。
そして、組織に声を掛けられたら、芝居だって何だって頼まれた通りやろう、といろいろな立場から、その活動指示にそのまま従ったものであろう。


今に及んでその規律ともいうべきものが守られ続けているので、この活動が世界中にその成果を上げることができたのである。


土地を失った農民にとって、仕事に恵まれなければ、食べ物と言えば、野犬にでも出合えば大変なごちそうであったが、鳥は常食にしていたものである。
いずれ、いろいろなものを食べ合わせては河原生活などの土幕民の生活を続けていたものであろう。


長島町の北向かいもリバーサイドであるが、南向きに長島川を前にしたなかなかの所帯である。
激しい上り下りというものではなかった。


ある頃、小さな男の子を連れた母親が、旧家に入り、庭の一角の別棟に暮らしていたようである。
男の子は、小僧呼ばわりで台所の火の番などを頼まれていたようである。
昔の厨房の職の順番に、板前真打に至る前にストーブ前というのがあって、ガスのない薪ストーブ時代の大事な火加減を見る係りがいたものだということを、ずっと前に週刊誌で読んでいて妙に忘れられない知識となっていたものである。
思えば昔は風呂でも火加減が必要で子供の手でも頼まれるものであった。