出征少年の軌跡


高い石塀のある大きな家を出て、石窟庵の宿坊あたりに、作務衣を着て勤めていたようである。
修学させようという後援者の配慮と斡旋があったものであろう。
そのご主人が、ふったもんだな、と語っていたというのであるが、どういうことであろう。
その後戻って来た、というようなことはなかったと思う。
電球電灯の走りの時期であったのか、自分の住まいにも電気が欲しい、と少年の母に当る人がぜいたくを言ったというはなしが届けられている。
子供に勉強させたかったのであろうか。
その家は仏縁の家柄であったのか。
少年は和尚さんに大事に漢文字を教わったのではないか。


箪笥の中の書状に用があるのかという話もあるが、宿泊中の奥さんが陣痛かなにかで床に伏していた時に、その二階にある部屋に同室して見守り役を頼まれたようである。
性非行的な振る舞いをなじる叫び声で、びっくりして二階から飛び降りて逃げようとしたのであるが、つかまり、町中引き回され、最後に棒に括られて大木の枝に吊るされ、振り回され、顔を樹の皮に思いっきり擦り付けられ、顔の皮が剥けたという、拷問を受けたらしい。
これは関係者がすっかり示し合わせた上での茶番劇であることは知れている。


それから片岡の上のテント小屋に居を構えている。
すっかり地下室ができていたスポットて゛、小屋の中は所々集音器を地下からくっ付けられた電話機になっていたことは、湯田町の二家の例と同じである。
ちょうど申告事件の時代で、土地を失った農民が土幕民という流民となって町の周辺に幕を張り、食べ物を捜し歩いていた頃であった。


ソン、と苗字で呼ぶパートナーが送られてきたという。
女教師になる学校の学生で、休暇中のボランティアであったろうか。
いずれにしてもイギリス人の地下活動組織内の繋がりであり、組織からの指示手配があってのことである。
どうもおかしい、扱いが足りないのか、特別に指名された人の生活内容としては、意味が無さ過ぎるのではないか、と思ったらしい。
人間違いであろうかと、グループでこの片岡一帯の崖下の様子と崖上の人間を調べ回ったという。
結局この地下室の上でか、と指示を仰いでがんばろうとしたのであろう。


なぜか、梶井基次郎の、ある崖上の感情、などという短編小説名が頭に浮かんだが、どういう中身だったか今思い出せない。
岸壁の母というのもなにか関わりがあるのだろうか。


自分から何を用意できる才覚もある訳もなく、あずかった物を利用して受けたヒントのままの生活を始めたのであろう。
現れていないが、組織スタッフとなっていた先輩達から、相当の生活技術の指導と供与が行われていたはずである。
来る将来のために何故かやらねばならない、という意識と決意が女子学生にもなければ成り立たない共同生活であったと思う。
きっと重大な目的があるのだろう。
あるいは、この民族の無念の危機的時代に、不思議にも深々と介入してきたこの西洋人の地下活動に、とりあえず草木のように無心な境地になって、どこまでも従順に身を添わせて行こう、と。
地下室の人が出征祝いに上がってきた時はたしなめてやったとか、朝の夫婦的な会話とかが記録されている。
保育児の保育中です、と友達に語っていたという。
最初の頃か、ソン、あんたはいなくたっていいよ、と言ったことがあったという。
洗濯がなっていなかったとか。


テント内のここが有る所だと、決まった場所があって、何かの影響を自覚していたような会話もある。
「ここが聞く所だ」
地下から誘導の声が届いていたのである。
「昔は西洋人もそうして凌いだものだ」
テント内の生活を写したビデオもあるようである。
この国でも非常に珍しい最新鋭の映画機器と映画技術であったろう。
スタッフが狭いテント内に撮影機と共に立ち入って、すぐ間近で機械を手回しするものであったろう。
犬社会とか、映画社会とかは、直接でなくとも、以後身の廻りの環境として色濃く高々と立ち現れることになる。


この祭り場が捨てられるまで、恐らくずっとこの人に、地下室のスタッフがついて離れなかったものと思う。


そして少年も正常心を失するような条件の時もあったのかもしれない。


女子学生はどれぐらいの期間この共同生活を続けたのであろうか。
一二週間もあったのだろうか。
火箸事件というものがあった。
戸主の義務でもある懲罰の仕方だそうである。
脚のふくらはぎを叩くのであろうか。
その女子学生が重い病にかかり、あまり苦しがるので、悩んだ挙句、どうにかなるかと病院に頼みに行ったことがあるようである。
病院の先生に何とか会わしてもらって、話すことができたのであろうか。
断られた後なのか、通路の出入り口から出て行くときの写真が残っているようだ。
生活の逐一に何かしらの形で組織が取り付いていて、その足取りを先回りするように追い続けていたものと思う。


実は、基本計画的に、この土壇場では、国の始まりの神話をかたどって、熊が美しい女性に生まれ変わって一緒になり、二人して人の祖となる卵をせっせと産み続ける、というストーリーが、百年の活動の隠しだねとして設計されていたということがある。
そしてそれを将来の脅しにも使おうとして、組織から用意したような生活の記録取りが図られたのであろう。
国生みの話について思い出せば、金海市の布留峰の頂上に、その神話の由来の大きな卵が器の中に納められて祀られているそうである。


木下開山、というイメージは大概の西洋の映画のワンシーンに取り入れられていたものである。
この一本の木が立っている丘の上での、神話語りが原点だというのであろう。
そして確かに、そのとおりの事業の結果が、今日、目の前の現実として成立しているのである。


神話とか木下開山とかということには気が付かないでいたのかもしれないが、その人も自ら強欲で走るような人間であったとは思えない。
イギリス人の組織活動とどのように対面して、どのようなことを言い聞かされていたのであろう。
映画ターミネーター2のように、身投げでもするみたいに深々と引き込まれて、その計画と演出に、死んだ者みたいにこの身を転がして預けてみよう、という覚悟であったといえよう。


その時気も確かな事でもなかったかもしれないが、孤独で物静かな少年が、かえって意固地になって、ソン、休んでいいのか、大仕事なんだぞと詰ったことがあったのかもしれない。
もはや勤めとして行わねばならない、かえって向きになって、通り過ぎねばならない一時のプロセスである、といつもおとなしい少年は、誰にも何も言わないで堅く心に決めていたのかもしれない。
独り思い込むと頑固なところがあるのである。
人に迷惑かけても偉くなりたいと思うような人であったとは思えない。
どうせなんでもやる気なら、もっと楽な生活の仕方はいろいろあったと思う。


このようにして、いろいろな"ロック"の謂れを含んだ日本国との対称に、"ロッキィー越え"という難所の通過が図られたのであるといえないであろうか。


共同生活がどのようにして終わったのか、そのサイトを離れてからどういう手引きがあって海を渡ることになったのか、あまり特記するような経歴内容はなかったのかもしれない。
組織主体の直接の関与に連れられただけの経路部分であったと思われる。