コピーする者の周辺


桂小沢の吉右衛門の家が酒をよく飲む家であったということはなかった。
吉右衛門が乱酔する状態になったということは、この家では二度とない異常な珍事件であったのである。
以後代々酒を飲まない人が続いている。
なかなかに食らわされたものである。


村上の家の江戸時代前期の異動について、福島藩のご沙汰にあらぬ疑いを掛けたのは、やはり、早くからの地域の活動員関係者が組織の工作にあって、近隣の農家の人達に耳打ちしたことに発していたという。
"けんちゃだ、けんちゃだ(本末転倒だ)"と子供の頃言われることがあった。
"あっ、けんちゃに長靴はいでら"とか。
しゅついてら、という意味ではないのである。
村上の家の主人が瘴気にでも当ったか若死にが続き、江戸時代末期にも、母子家庭の苦戦でとうとう一部田畑を手放してしまったようである。
村上の家のすぐ傍にあった家が、その時に、たぶん昔の仁左衛門の家の子孫がいた北向かいから分家して入った家であろうと思う。


村上の家が事件にあってから戦後に及んでも、さっぱり発展がない時、その新入家が、長男を隣県にある福島の旧制中学を卒えさせていて、部落内では目だって磨きが掛かり一番の見識と貫禄で抜きん出ていたようだ。
戦後のアメリカ人と岳村との最初の出会いに、印象深かったのはこのような事情であったろう。
広い地域から信望を集め、海兵隊上がりの当主が村議会議員に選ばれている。
今も広く活躍されているものと思う。
前に述べた、ふたごの姉妹がいたかまど家というのは、この家を本家としているのである。


運動が村上部落に入ったのは、遅くとも明治十年代である。
武蔵は父親を亡くして、まだ子供であった。
小国通りの多くの人間が勢ぞろいして、一種強制的に以後百年の活動の発端を銜えさせられたもののようである。
その後、組織活動が山本村から去ったということはなかったであろう。
ずっと、何かの工作を続けていたものと思われる。
よそでは詩人になったり、先生になったりしている時、武蔵は何をしていたのであろう。
遊蕩したとか、不良を働いたとかもなく、ただの農家の主人に過ぎなかったのであろうが、黙々とした日々のうちに何かが潜行して進められていたものと思われる。
何にも触りがなかったとは考えられない。
そして十年、二十年、三十年と年月が経ち、大正年度が迎えられたのである。


紛れもない当主が健在なのに、自分の息子が嫁を貰う頃、分家筋にあたる家から入った養父の名前が、家の屋号みたいに呼ばれた時期があった。
助六という名であったので、助六家、助六家と盛んに呼称され、助六養父が亡くなってからもわざとのように、すけろくえ、すけろくえ、と新しい屋号のように言い慣らす人がいたものである。


いろいろ言う人がいるものであるが、武蔵でも、その三人の子供でも、武蔵の弟でも、その子供達でも、盗みとか淫行とか悪口とか、そんなことはとんでもない農村での素朴な暮らしであったといえよう。
武蔵の弟は何も言わずに黙々とよく働く人だったそうである。
兄を父親代わりにして育った人である。
その長男息子はなかなかできる人で、コピーする者の父も、村ではインテリだったと話していた。
立派な字が残っているが、整った静かな楷書で、お寺の和尚さんにも負けなかったであろう。
結核に罹り、自分でその頃珍しいトマトを栽培して養生しようとしていたらしいが、惜しい人は若くして二十代で亡くなってしまうのである。
長女はのんびりとした人で、眼がよく見えていなかったようだ。
他人に決してけちな事のない人であった。
ものを人にあげようとばかりして、長い距離を歩く人であった。


コピーする者が幼児歩きを始めた頃、隣のかまど家のおがが、こうやってあるぐの武蔵が見たらなんぼ喜んだべ、と言ってだど、と母が話して聞かせたことがあった。