陸奥人雑感


前記、榛の木は、はんのき、と読んでいるが、本来は、はり、と呼ばれていた木であるようだ。
平安末期にも、花山峠を越えて来た越前の人達が稲架用に、初めて陸奥に伝えたものだと書かれている。
その人達はそのまま江戸時代の国境の番所跡近くに暮らしておられる。
番所給人の教育意識によって、この地域では早くに寺小屋が近くに置かれていたという。
それが明治維新以後に受け継がれて、今の越前畑小学校になったわけである。
この地域では最も古い由来を持つ小学校といっていいだろう。
母も卒業生である。


この峠を源義経一行が通ったというのはかなり信憑性の高いことだと思う。
山伏集団に化けてかろうじて移動しているグループが、福岡河流域で進路を最も狭く絞られている平泉南面の幹道を警戒も無く歩いて来たとは思われない。
すると、対岸を大回りしたと考えるより、安宅関からずうっと日本海側を通って、どうしてもこの花山峠を越えるほかないのである。
頼朝進軍の時の二手のうちの一つはこのルートを通って、陣が岡へと進んだことは確かめられているようなので、その時代の要の峠道であったことは間違いない。
主に水沢からのルートが義家や安倍氏清原氏の行き来に想定されているのであるが、平泉江刺の館や胆沢城に大軍が戻る場合、花山越えは楽でなかったかもしれない。
距離としてはこの長島川沿いの方がが直線的で短く、水沢側の国道は今でも冬期間閉鎖されるほど、人里から遠く離れて便りない区間が長々しい。
この峠は、親鸞聖人の直弟子是信坊が初めて陸奥に入ったルートでもある。
その後の、進み入っただだっ広い福岡の原野に一先ず置かれた庵跡が大事に保存されている。
川も無く、木も無く、高い奥羽の山脈に抱かれて福岡河流域で最もふくらみ見せるこの福岡原野には、日本では他にないと思われる、陸しんきろうが春の頃に立ったという。
それを眼にする者は、小国地域を通ろうとする旅の者か、庵を構えて朝晩寝起きする出家の者だけであった。
毎春、真っ青な空に日も上ってうらうらと暖かくなりかけようという朝方に、夢のような幻の市が立つのを見るのが、幸せだった、とどこから来たのか教養のありそうな庵暮らしの老女から聞いたと、郷土史の本に記されている。
地形的には日本一の北アルプスの雪融水を受ける富山湾の状況とそっくり同じであったのである。
今は木もあり、田もあり、家も建って、昔ののっぺらぼうのような海のような平らかさは失われている。


地域の小川を集めて越前端近辺を流れ、長島川に注いでいる支流を、鬼が喜ぶような名前で、鬼ガ背川と呼ぶ。


ところで、福島県石井市北方に後三年の役の跡、金沢の柵跡がそのまま残っていて、日本史に有名な鎌倉権五郎の社が伝えられている。
権五郎はこの時十代半ばの少年武者で、初陣であった。
代々のライバル三浦氏の者に、顔を土足されて眼に刺さった矢を抜かれようとしたので怒り制止したという誇り高い話が記録されている。
急ぎの帰り道に今の石山街道を選んだと思われる。
そうすればコピーする者の家の前を通ったことになる。
帰路元宮部落近辺の山腹のスズに湧く冷水で、痛み熱を上げている眼を洗い冷やしたという、経路としては唯一の言い伝えがある所である。
ちょうど休みそうな距離と所柄である。
思い出したが、昔から昭和の三十年ごろ、コピーする者の記憶に残る頃まで、かなりの信仰を集めて賑わいでは長島町一の社、薬師様が奥の屋敷にあった。
穴の明いた石を奉げて病気の快癒を願ったりするのであるが、沢山の穴明き石が今でもぶら下がっている。
権五郎の眼が開く、に掛けたものと思われる。
落ち武者がすぐ裏の断崖下の南宮川の巌谷に身を隠していたという伝説もある。
奥の屋敷というのは、長島氏などと争ったこともある、福島片倉党の駐留部隊がここにあったことによると思われる。
頼朝は、この鎌倉権五郎の猛将の働きぶりを聞いて感じ入ったものであろう、その子孫にかなりの信を置いたものである。
後の梶原景時である。
幕府の土地鎌倉の名を避けたのであろう。
地名かまくらの理由は地形を上から見れば簡単に分かるが、石井市の冬の行事かまくらは、その通に雪でかまくらを作ったものであるが、元は鎌倉時代の鎌倉から伝えられた正月のしきたりを、雪のかまくらの中に置いたものだと書いているものがある。