コピーする者は他人の物に自分の名を付けられない


イギリス人の先生が言われることであるが、不可能でないことは自然に何でもあるはずで、ないことにはその理由があるはずである、しかしその理由は基本をなしている条件とルールが、ほぼ見極められているテーブル上で立てられるのでなければならない、従ってそのテーブルをはみ出ていることのないことが、そのテーブル上の感覚で不可思議な事に思ってしまうのも、わざとらしくもあって倉卒なことである。
まぁ、順番に対称性の可能性を詰めていって、実在の階梯に符合していたということもあったが、とにかく辻褄を急ぐと、理屈に先走って、変だよ、こういうようにだってあらぁ、とある意味ではやけに律儀に、若者の原理主義さで走ったものがなかなか巾を利かしている、といえるだろうか。
たとえば数学者というのは水晶みたいにファンタジーみたいに純で一本気で、本人が詩作品そのものであるように突き進む所がある、戦争でもないのだから。


コピーする者は、はっきりとしたことは何一つないのであるが、とにかく、過った事のある先祖の子孫の一人として、偽ることなく自分の人間としての、全き権限と尊厳を当然にも主張する。
過ちをよしとするのではない、人間はあまりにも暴力的に一方的に、動物的にまで追い詰められてきた。
あまりにも上下に、輝く者と薄汚すぎる者との差が、いつまでも救われることのないように、大きかった。
昔のことは、すっかり忘れていいものと、礼儀として一年に一回思い出すべきものとの二つがあるものと思う。