イギリス人と岩手の山々


宮沢賢治銀河鉄道の夜のイマジネーションを最も刺激した場所は、江刺の種山ガ原であろうと思う。
賢治一番の創作現場は岩手山周辺であるが、どうしても岩手山がプレゼンスとなって、垂直的な全き天球への展望には向いていない。
もし曇っていて夜の星が見えなくても、足下に、ビカビカとした北上川沿いの市街地の連なりの光の集合体がある。
宇宙一杯の星の明かりを、逆さに夜の地面に明け換えたみたいに、一つの銀河の流れをなしているようである。
日本列島最古の地層中国と北上の山地はドーム状の山頂が多い。
銀と金を産したのは古層の露出地域だからであろう。
この理由で共に、直下型地震の種になる活断層が皆無の地域でもある。
種山ガ原は、北上山地に千メートル台で長々と並ぶ真ん丸い山々の、典型的な一つで、今もその天辺に賢治当時の天文台のような真っ白い雨量観測塔が立っていて、北上川の平野部からも天気のいい日は光って見えることがある。
地上物の一切の介入を断って、天を仰ぎ星星の空間に純粋に仲間入りするには最適の孤独地であったと思われる。


脚の長いイギリス人も岩手の山々を渉猟して歩いたことは確かである。
たとえば、アフガンとかパミールとかはそれこそ英国の冒険好きなジェントルマン達の自由な遊び場であったのである。
山谷美に肥えた人達も、岩手特に盛岡近辺の、襞深く迫る岩手山とまだ若々しい沢川のような北上川とその向かい側につんと尖っている姫神山の風景をメルヘンのように感じて、いかれたものと思われる。
岩手の山々を見晴らすには、物見山とも呼ばれている種山ガ原が恰好である。
イギリス人もこの山に上ったであろう。
そしてこのような山行の取材が、詩人の多くのインスピレーションの材ともなったのである。
手のひらに浮かべたようなスパンで、須川岳から岩手山までの一繋がりの奥羽の峰並びを捉えることができる。
その真ん中辺りに唯一大きなくぼみがあるのが眼に立つ。
長島法師の窓と呼ばれている。
この日の沈む方角真西の谷間に関心を持ち、特に進軍させ調査させたものと思われる。
秘境というには歴史的にも割合とにぎやかな地域であった。


千枚びらの峡谷部を見下ろして抜けると、エアポートのようなへずられた岡があり、その西向きに山本村があり、杉山の家が鎮守の森を背後に控えて立っている。
イギリス人の展望の図形への関心から想像すればこういうことではなかったろうか。


奥羽の山脈地で、宮城県の鬼首からはこの長島法師の窓まで人の住める所は全く皆無である。
長島小国の山々の大先生である人から聞かされた話では、ブナの原生林の広さで日本一は白神山地でなく、この奥羽の須川岳一帯であるという。
手宮城秋田山形に亙り、ひとまとまりの地域としてテーマにされることはほとんどなかった。
よく見ると、温泉や鉱山の開発もあまりなく、人の住むことのない山岳地が一繋がりのものとして未発覚のまま茫茫として取り残されているみたいである。
北海道の山岳地周辺の人里遠さを凌ぐものがあるのかもしれない。
変転の忙しい世の中で今分からないことであるが、平泉近くの衣里小学校の校庭が、星空日本一の空気の澄んでいるスポットに何回か選ばれている。
特に奥深くの田舎の分校という所ではない。
平野部近くの街中の学校で、けっこう大きな小学校である。
本当か、と意外に思う人が多いはずであるが、上記の事情の通り、ひとまとまりの実体をまだ認められず測られないでいた、日本一のブナ原生林の行方知らない未知のマッスを校庭の真南に迎えていたのである。
真実に人里遠いものは、その実あればその通りに、人知れずに忘れられているものなのであろう。