「人類史の前額部」に位置していたという、ヘブリディーズの悪魔に気が付いて、今まで付き合いのあったカソリック教団の位ある人達も、もう行かなくなったというが、そのような分別が去っていけば、悪魔活動共々その島ががらんどうになっていくというものだろうか。従順なアジア人で補充されていくだけ、などということはないのか。


昨日の話の続きであるが、どうもここみちのくの横手市湯田町北上市花巻市東和町遠野市辺りのラインは、ある時代の前線に値していたようである。
例のストーンサークル文化の南端でもある。
エンデの森も、遠野、北上花巻境、沢内南端と直線を引いたように、ほぼ横一線に並んでいる。
この辺りに、米作故地雲南の地名が多いことは前に触れたことがある。
越の国の王、阿倍比羅夫が、みちのくの平定に派遣された最北端の跡と思われる、胡四王神社も、ぴったりとこのライン上、横手市花巻市とに二つ並んでいる。
中央からの進軍と、その後の水田米作移入の儀式が、この前線ラインで、点々と執り行われた跡と決め付けていいようである。


ここはそのような、古代日本史黎明期に、たった一回あった祭り事の土地、平和と収穫の祈りが籠められていた特別な土地であったのである。
国家事業であれば、大きく考えて、飯豊連峰というのは、この祈りを後背から強く支援する役割を持つものとして、方角的に置かれたのかもしれない。
遠く、雲南方面からの後援をも当てにしていたのかもしれない。
阿倍比羅夫自身、越の国の王ということで、江南越人と特別なルート上の関わりがあったのかもしれない。
タミール雲南、江南呉越、越の国のラインが浮かぶようであるが、どうであろうか。


今の天皇家も北陸方面の発展地から大和に入った人から始まり、その人を継体天皇という。
その名は、元の王朝の姫を迎えて大和の王位を継いだ、当の新大王の事績を表して、後世に伝えている。
万世一系説が最も疑われている所である。