人を殺めることに反対している先生方と書いている

「無刑録」を書いた芦東山の生家は大東町渋民村の名主の家であるが、その隣に伊達藩主が領地巡回の際宿とするための館がわざわざ建てられていて、今記念館として利用開放されている。
その庭先に六十六部回国供養の石碑が麗々しく建立されていた。
近くの神社にも見上げるように大きな、同じ趣旨の石碑が立っていた。
名主の家の者が歩いた際の記念の碑であろうかと想像したことを前に書いている。
今思えば、やはり、この地で倒れた巡礼六部を悼み、江戸末期はやった「生き神様」を頂く感覚で、各地に広まった特別に供養して祭る習わしの通りに弔い祀った、なかなか大きな法事儀礼の跡であったようである。


近く太平洋岸に迫る位置に室根山という、千メートル前後の高さで連なる広大な北上山地の山並みの最南端かと思われる弧峰がある。
この山腹に、芦東山が篭もったという岩窟があった。
そして、山頂近くに古い神社があって、一直線に広い参道が急角度で海の方角から上り詰めている。
義経と弁慶が戦勝祈願に馬で駆けつけたと記されていたが、思えば若かりし頃の修練時代にもここみちのくにいたのであれば、あの急坂の上り下りの馬術はこの地での激しい練習によって身に付けられたものであろう。
日本で純粋な騎兵戦ができた人はこの義経と日露戦役の秋山好古だけだと、司馬遼太郎先生が書いていた。
狭い山国の日本では、歩兵力なしに騎馬集団を操って戦うには、山の上り下りが自由にできなくてはいけない。
内地では義経だけしかできなかったのである。
その技能が、修行時代に暮らしていたみちのくの山道での日々の激しい鍛錬ですでに身に熟していたはずである。
でなければその後の活躍はありえない。
日本国内唯一の騎兵隊長を生んだことになるこの参道は、坂の上り下りの練習にうってつけの急で広く長い坂道であった。