殺人を犯して反省のない人のお世話にはなれない。組織活動員とはいえ、全部殺人を面白がる人だけとは思えない。あまりに人間性が薄い。異常である。


「手でも汽車を止めて組織の仲間入りをしたんだよ」
「汽車を止めて」というのはその時のことなんだ。
印象深かったんだな。
アンテロープみたいに、荒野の青少年として組織に出合ったというだけの事であろう。


昔のみすぼらしいことなど、武力支配による差別搾取、他民族侵害の長い時代に、海のように当たり前にきりもなくあったのである。
そういう無数の埋没の屈辱の上に人の歴史は流れ進んできたといえよう。
そんなことをいちいち思い出して伝えることはない。
前代の個人的な昔のことは一切悩まなくていいことである。


汽車を止める手ということで、アンテロープの角が出されたのであろうが、また江戸時代の役者絵の、蟹のはさみのようにも小ぶりな、一杯に開いた両手のポーズが思い出された。
元Y町には、蟹も江戸時代もなかったと思っているが、岳村であれ、桂後沢村であれ、組織からほのめかされている事に関しては、誰も知らないことであり、第三者の調べもないことである。
特徴的に、誰も見ていないはずの独り作業を誰かがこっそり見ていたようなことを言っているのである。
もちろん今のイギリス人幹部だって、書いてある資料を読んだだけの人なのである。
皆さんより現場に近い、見てきている、などということはなんにもない。
昔の資料だけで言っているのである。


ところでシンメトリーとして、わざわざランドセルみたいにドウランをあてがわれた人がいたようだ。
理科の夏休みの宿題に、律儀に脇に挟んで歩く少年のように。
小学に入る時、皆と違って革の厚い古いランドセルを背負わされて残念なことがあった事を思い出す。


とにかく、隣の国の人が案じている戦争の過ち以外、個人的な前代のことは次々と忘れられて行くのが自然というものである。
時代と環境が大きく違った世の中でもあった。