村上の家の不運について


すでに江戸時代から、一家の主人が早死にする家であった。
水不足に悩まされたようで、いくらか高台にあった屋敷内の前だけでなく、後ろにも堰沼を掘った跡があった。
丹念に精を出した跡であろう。
父と母も、亡くなるまで用心深く、ストックする習慣であった。
普通なら持って行ってもらいたい古畳なども、小屋の中に梁棚を作ってその上に載せて貯蔵している。
その畳をカーペット替わりにして座って、今PCの前にいるのである。


どこの家にも病気と早世の不運というものはあるものである。
武蔵の実父は、十歳前後明治十年頃に亡くなっている。
武蔵兄弟はまずまずであった。
弟は期待の長男を二十代で結核病で亡くしている。
インテリだったと、父が尊敬していた様であった。
字が残っているが、あまり見たこともないような端正な楷書である。
武蔵の長男は、三十代で自分の子、父健一の生まれる前の年に亡くなっている。
最初の妻も兄妹を産んですぐ亡くなり、同じ家から妹が来て後添えとなった。
その後妻との間に次男が生まれたが、二十歳前後か、郵便屋さんをやっていたようだが、やはり結核で亡くなっている。
父を見ることもなく亡くなった祖父の後に座った父の養父も、台湾に出征後、馬好きで馬産に励んでいたようだが、馬に蹴られて亡くなっている。
武蔵の後添いも主婦としてがんばってきたようだが、乳がんで山形の付属病院病室で亡くなっている。
山を売ってまでして入院費を捻出したそうである。
財産無くしてしまう、と困ってしまってその後家が言ったという。


火災とか蕩尽とか、また非行犯罪のせいによって家格を落とすようなことはなかった。
まぁ、あまり悪い印象を振りまかれているというので、小さな話であるが清一もレンも村の上の家ではないかと、村上二人、というのは冗談である。


二人、というと、村中集まられて、縛られて兄弟がそれぞれの妻に長男長女の二人を頂いたという、演出的な写真が何枚かあった。
あったというその事件から少なくとも二十年は経ってからの写真である。
強制的にモデルをさせた、その時だけの写真であって、村人の気持ちを表しているわけでもなく、村人がその表現に合意しているという証拠でもない。
西洋人の高飛車な押し付けと考えていいであろう。
真実は分からない、と言える。


付け加えると、どうも、ツー、ツーと、蟹バサミみたいに二人を指すサインが暗示的に送られていたようだ。
向こうの話に、チェッ、チェッ、というのも、二人を意味しているのである。
つまり、無期刑の聾唖者母と落伍して靴が脱げてしまった姉と。
集団はニュージーランド村で羊を飼っていたのだろうか。
大きな建物があったようだ。
小岩井農場、という程の経営者もいるような企業であったのかもしれない。
付け足しが長くなるが、ここの少年の言葉から、意味が違って、神様です、とか教祖様、と拝まれるような先輩方が並ぶことになる。
例によって、その時々の村人の口にした表現がそのまま採録されて、後の長い計画のいわくにされていることが多い。
「あの人達は神様です」とは、「おえらいさん方だ」といった感覚であろうか。
すなわち、私達とはまるっきり違って、裕福で雲の上にいるみたいだ、ということだろうと思う。
昔はそういうことがありふれていた。
コピーアーも、あまりおとなしくて、神様みたいに言われたことがあった。