雲南市 出雲市 出雲崎


出雲市の地名の由来を、雲南を出ずる、に、先日推理したことがあった。
雲南とすれば、普通に越人集団と考える。
また、日本には堂々と越を名乗っている古代の国がある。
その新潟に出雲崎がある。
新潟方面は、出雲市方面からの二次的渡来の跡である、というような資料がある。
いずれにしろ、どちらもちょうど、南方から遠来の船がたどり着きそうな形に突き出た岬の海岸にある。
一番最初に足を下ろした所という、記念に名づけた地名と思っていいであろう。
なぜ雲南の地名にこだわったのであろうか。
敗北して今までの母胎の地江南を失い、決別して行く時の心理には、アイデンティティとして自分達の原点の土地だけが強く意識されたであろうことは納得のいくことである。


水田農法を伝えた最初の大集団と考えてもいいだろうか。


今の天皇家の始まり、継体天皇も結局は越の方面から入ってきている。
神話にある大国主の尊というのは、国土において一番の伝統と勢威を誇っていたものであろう。
その後、金属技術と支石墓の文化を持った集団が筑紫平野に、大和の王国を開き、やがて出雲の王と接点を持つに至ったという筋書きが成り立つ。


水田農法の開祖には、人類史共通の治水伝説が授与され、ここでもちゃんとやまたのおろち征伐伝が根を下ろしている。
重大な事件は忘れてならぬものだという、天の定めででもあるように、ドラゴンとか竜の退治話は、農業の広がりと共に広く東西に亙っている。
かくして、出雲族の渡来と共に日本にももれなく洪水平伏伝説が伝わり、国定神話の大事件として取り入れられているのである。


一方、稲田姫を救って手にしたという草薙の剣伝説も、日本の神話において象徴的に頂にあるものであるが、これは筑紫に宮を置いた集団が、鉄器文明をもたらし、その鉄の刀の威力で出雲の王と見えたという重要史実を伝えているものといえよう。


出雲の王の由来から考えれば、みちのくの最前線に置かれた胡四王神社の越王という意味も、奥行きのあるもっと重みのあるものに感じられてくる。


ところで、単純に、倭という漢字は、越の発音の当て字と取る事はできないのだろうか。
越は、古代中国語に当れば早いであろうが、呉音読みではウォと読み、越南と書いてヴェッとも読まれている。
倭は、韓国語ではウェと発音されている。
推測すれば、越民という集団名は、遠く越してきた人々という意味であろうと思う。
かなり遠く。
何よりもはるばると越してきたという特徴が圧倒的で、それで以後越民と集団を名指されたのである。
悪い意味ではなかった。
遠くの、という意味だけでは、珍しく差別的でない中立的な表現であると思う。
一般的に南方遠くの人々を指す意味から、越という名称が使われ始めたとは思われない。
逆に、一グループから敷衍的に広く指す名称となったものと推察する。


越王は一応中原の盟主となったこともある。
一敗地に塗れて壊走すれば、もはや同輩としての尊敬を得られなくなる。
呼び名の文字も殊更蔑みの意味を含むものに変えられることもあろう。
今の南支地域の越族はその後、前からあった種族名に、門の中の虫という昆虫を含む字を当てた名をかぶせられ、びんえつ、と呼ばれている。
倭という文字も、女性的でなよなよとしているという意味だけの形容詞で、はっきり中国人側からの差別用語である。


忘れていたことであるが、倭族というものがすでに呉越周辺にいて、半島南部と列島に移って分かれて住み着いていたという記述の紹介があった。
海洋民族というのであれば、海部族などを指し、またやまと国を置いた「天孫族」を指すのであろう。
先生方が更に推理を進めて下さって、それはワイ河下流、海に近く暮らしていた海洋性種族で、呉越の頃に、燕北方朝鮮北部に渡って、やはりワイと呼ばれて高句麗と並び長く勢力を誇っていた人達ではないか、という説に出会うことができた。
ワイパクと一緒に言うことがあるが、パクは高句麗民のことで、別々だという。
だんだんに南下して、高句麗内最南端あたりから何ということもなく消滅している。
倭という字は昔ウィとも読んだそうである。
とにかく今朝鮮にはワイの字も倭の字もない。
最初は北九州一帯を倭国と呼び、そのまま日本国を倭国と呼んだのである。


いずれにしても、出雲、越の国という由来があることに変わりはない。
そして、倭族の列島侵入が、紀元前100年頃ではないかというヒントがあった。
衛氏朝鮮を創めた前漢の衛満が、どしどし中国人を移民させたので、前からの半島の住民が大挙北九州に押し寄せたという。
北九州から瀬戸内海を突き進む金属器を伴った水田農法の伝播の跡は、大概これ以後の発展ではないかと思われる。
よく遺跡地図を見れば、それ以前の稲作跡が、島根の出雲付近や九州の西岸と南岸、そして四国の南岸と、外洋を渡って訪れた人々によって残されていることが見えてくるのである。
紀元前200年代の徐福の移民船団も大きなものであったようだ。
しかし一番大きな弥生人成立の要因は何といっても、北九州倭人国の発展と進出であろう。


北九州の人達は、中国人が自分達をそういう蔑称の意味もある名で呼んでいたとは気づかなかったものと思われる。
実は、倭は、元は漁民ワイであったにしても、麦畑地帯から見て、水田作業が目覚しく、その姿から、最初に出会った水田稲作民として、その字を当てられた人達なのかも知れない。
しかし、文字の意味を知るようになってから、さすがに地元民は自分達の名に一切倭という文字は記さないで、和という文字だけを使用するようになる。
一国土の王国となれば、中国も尊重してその蔑称を捨て、その自称名を取り、相手を呼ぶことになる。


気晴らしにご報告のあったことをお届けする次第であります。