コピーアーの人生など書くか


この間から、コピーアーの家の者で、今まで満足に人と対等に組みして、働くことのできた者はいなかった。
「Happiness consists in contentment. しあせはまんぞくにある。まんぞく ? どこに ?」 「しあわせはまんぞくである」
他人より人の世の勢力を身に付ける運動であろうが、一人たりとも、人に伍して張り合えるほどの自信と、交友の幸せを経験した者はいなかったといえる。
実に、世に出て、当然のように人と並んで歩けたという、一端の者さえ長く出ていなかった。
どこの職場にもいる、四五人をまとめる班長さんの花と実にも及ばず、そんなことでもあったら当たり前の男がいたと、やっと先祖達も安心できるであろう。


自分では足が速いと思っていたが、どうしてもクラス代表に選ばれない。
小学校五年の時、徒競走で3位の表彰台に乗ったことがあった。
つまり、表彰というものを他に受けたことがなかったという意味である。
失職をして、50歳頃新聞配達の仕事を見つけたことがあった。
小学生のアルバイトより優秀なことはない、と言っていたであろうが、どういうわけでか優秀配達員の表彰状をもらいに県都の新聞社に子供たちと一緒に連れられて行った事があった。
生まれて初めて受けた嘘の優秀表彰状であった。
他にも、四五年前には、市民大学という、週に一二時間十回静かに受講したというので、皆勤賞をもらったことがある。
このように人に誉められることの皆無の人生であった。


父が脳卒中で倒れ、農家で米はあったが、母はやっと掃除婦の仕事ができるぐらいの身の程で、貧乏では中学高校とクラス一二位の最下位であった。
しかも山間部の農家からの移転で、「風の又三郎」の一郎君のように、ピカピカとした高級転勤公務員のご子息とは正反対の、他人と違う文化の遅れで忸怩とすることの多い後背地転校生である。
地域でも農民としては、他所からの新参者として一つも他人より頭の上がる所がない。
高校の時より奨学金をもらっていたが、その頃奨学制度は少なくて、その高校で貰っていた生徒は一人でなかったかと思う。
修学旅行にも行かなかったので、京都奈良の見学もしたことがない。
やはりまず、苛められるために穴のある学校に入っていたといえる。
小心者で元気がなくて「つまらない奴だなぁ」と、表面的には一くくりに言われるだろう。
口がなくて、鎖で縛られたみたいに不自由に、かけられた言葉を芸もなく単語的に繰り返す。
カウンセリングの技法に反射というのがあった。
ワンパターン症候群という病状を出していた病人であったといえよう。
遅刻常習者で、3分の1程も遅刻していたであろうが、優しい先生は17回の遅刻数に書き直していてくれた。
出席認定の処置で早めに登校を免除してくれ、そのまま高校に行くこともなく、卒業式にも出ないでしまったが、卒業したことにはなっている。
先生の情あるご処置と思う。
「無間に」穴の「牢獄」にいる、と見える人なら言ったかもしれない。
いたまえ(痛前)だ、と公正に表現して下さる人がいてうれしい。
生まれたときから今まで、一回でも一人で声を出したことはなかったのではないか。
家族共々、それほどに間断なくつきまとわれ、まみれて生きてきたということである。


横浜の新聞店住み込みが、家を出た始まりであった。
孤独で勉学もなく、「金欠病」で、いよいよ来年が狭く暗くなっていくだけではないか。
延べ、フルタイムで二週間ほども落ち着いていた所があったろうか。
また母の地味な手弁当に帰ってくるまで、何にも成す事もなく続いたものもなかった。
体にラジオ受信機と発信機がが入っている、と騒いで帰ってきたのであるから、落ち着かない。
隣近所に失礼では困る。
父と母は、隣近所に迷惑を掛けることほど悪いことはないと、自分を慎んで生きてきた人達で、自分の方を切っても、申し訳ないことは絶対にできない。