続き


簡単に続けよう。
いくつかの仕事を体験してから、臨時プレス工員の仕事を6年ほど続けることができた。
またいろいろと路頭に迷ってから、めっき工場の今度は社員工員として雇われることなり、やはり6年ばかり続けることができた。
「ただの土方」とそっくり、水場の中で、長靴とカッパで重装備して、重い物を運び、出し入れし、洗う仕事である。
続けられた仕事というものは、みな学歴どころか、国籍年齢さえも不問の地帯で、組合などという贅沢もはるか彼方にある職種であった。
しかしこれが人生の実績の最高位である。
これからもコピーアーの名において、これ以上の職業人としての地位を得ることはないであろう。


事情を話すと長くなるが、この工場の工員時代に、ある時から、一時も離れたことのなかった、不精の病とその他の事が心と体から去ったのである。
人生の分水嶺といえる。
すなわちそれからは、今まで片時も離れたことのなかった身体状況と精神状況に安定的に戻ることはなくなったのである。
休日となると常に横になって頭を後ろの戸棚に掛けていたのであったが、今眠るときでない限り、昼日中何することもなく横になる状態になることはない。
およそ45年に及ぶ無能の半生の証拠、てかてかと髪で擦れ光りしていた戸棚はすでに焼却している。
一日たりとも、先輩としての実績を認められたことのない人生。
一時たりとも、一人前の成就に向かってレールの上に乗ったことのない人生。
なんとか工員勤めは続けてきたが、他人に勝れたことの一切ない半生。


母もくたびれてしまって、家に鍵をかけて工場に出ていたが、帰ってくると毎日のように一大惨事であった。
暇無しに働いてきた人生なので、せっせせっせと動き回って物を壊す。
テレビ受像機も落とされたことがあって、痕が残っているが、今も働いている。


今やそれから十年も経っているのであるか。