高級公務員の時代の国で、国が悪い、と言ったって悪くないことがある。


誰がみずからその民族の者でありながら、自分自身をまるごと裏切って、その民族を悪いと本心で言う者があろう。
国の権力と民族、過去には難しいことがある。
表面的な発言と行動の記録では、誰が本当に民族の名誉を汚したか分からないことがある。


身分制度の激しい時代では、高級公務員でなければ、どこにも自分の為になる国とか権力とかというものはなかったのである。
公務員達の為の税金収奪制度が国家というものであった。


たとえば韓国でいえば、昔おえらいさんは、ちょっもごら、と言って腹の減った小僧に向かって一杯威張るから好きでない、といったことがある。
どうしても食べられない。


何だかサクラに怒る者、というのがあった。
実は、桜でなくて、当時の高級国家公務員のことだったということであった。
さむらい階級というものは他所の国にはなかった。


わたしら、やっと尋常小学校の2年まで行ったとか、卒えられたとか言っている時代、商業高校や、とか早慶戦で買ったとか負けたとかと、驕ったような天国にいるみたいなことを言う。
中学に行くといったって、殿様みたいな人の世のことでないみたいな、ピカピカとして手の届かない時代であった。
牛肉と馬鈴薯」という人生の二つの境がある、という小説があった。
両境はきっちりと相容れないものとして遠ざかったものであるという趣旨であった。
今でもじゃがいもも満足に食べられない状況がたくさんある時、ずいぷんなことである。
昔はそのくらい、目が眩むほどに、境涯の差が険しかったということである。


やっと尋常小学校早慶戦、この矛盾が身に沁みて、分かることがある。