コピーアーの由来


父が新兵訓練で鹿児島に行っている。
その鹿児島の伸氏の出ではないか、というのである。
山本部落に十手取りが来たというのは、だから伸氏の先祖に十手を預けられた者がいたということであろう。
士族扱いの地域であったらしい。
明治維新期にはかなり活躍して、薩摩藩兵士として東北方面にまで送られた者がいたという。
日露戦争の一番の英雄東郷平八郎も、この頃にかなりの戦歴を積んだ武士であったようである。
西南の役に、士族側の者として西郷に従った者もいたという。
組長伸なのだが、後に全国にある六部伝説の人と出会っている人がいるのかもしれない。
家庭を出て、ストリートチルドレン的な状況に落ちていたことがあったらしい。
「寒かったでしょう、ひもじかったでしょう、暗かったでしょう、寂しかったでしょう」「しんちゃん」と、新宿駅裏あかとんぼのちあきなおみさんみたいなおねいさんに保護されていたようだ。
映画でいえば、銭形平次大川橋蔵みたいな感じであろうか。
たばこを盗む、と誹謗されたことがあったようだ。
我慢強い自制心の強い人間であるから、物を盗むようなことがあったとはとても想像できない。
孤児放浪中兄貴分に連れられて歩いていたことがあったようだ。
熊みたいな手の跡があったという。
父はあまりおとなしくて、固辞するということが苦手であったようだが、運転室に入ることは断ったという。
実際に地下活動に与っている家は部落では一軒しかなかったようだ。 
今の高校に当る実業学校農業科を独学で卒えてから、更に大学に当る専門学校経済学科をやはり独学で検定合格して、修了している。
実業学校の科目の点数が記録されていて、実技、体育の点数も80点あるが、図画が82点で最高点になっている。
夜寝ないで勉強しているものだった、と母が話していた。


昔なぜか遠路はるばるその伸氏だかの家にまで行って、あんた偽者だ、とかと言い寄った人がいたという。
その子孫に当る人が、また遠路はるばると、コピーアーだか誰だかを偽者だ、と言いに街を歩こうとしたという。
昔そっくりの配役である。
地下が考えにまで取り付いて人を振り回していることが分かる。
きまじめな堅い人柄であるから、わざと自分を控えて演技的に自覚して発言したのだと思われる。
当てもなく、なるはずかないと心底で思うことであったろう。
実際に出たのでもないそうだ。
友達が、「しんはあまりおとなしいから、どうせ会えることにはならない」と語っていたという。


生まれてくる赤ん坊が不憫で、伸にしたという話もある。


武蔵が本気になって侵入者を追い払おうとした危機意識は今こそ本当であったと皆が納得するのではないか。
誰もが認識が浅くのんきすぎたのである。
ただし本当の侵入者真犯人は第三国人ではなく、活動指導者イギリス人そのものであった。
ちょっとした違反もぐりであるが、出世できればいい、出世するだけの運動だと思っていたのであろう。
同じ部落の分家の家に、尾張藩徳川家当主の華族家庭から、ぴかぴかの三男坊の息女が嫁入りされた。
その家の子孫に、義の字の付いた名前の人が多いことがある。
よしのぶ、よしたけ。
私の母の甥に当る人も、よしたか、という先祖代々からすれば、かなり毛色の変わった名前を付けられている。
以前から不思議に思っていた。
本来ならその人に流れていた尾張家入村の影響であろうか。
ただし字は義ではない。
村の人たちは、華族家庭の息女が分家の家に嫁いでいることに、皆が気付いてはいなかったらしい。
エベレストの山嶺から気を失って滑り降りるみたいなものだ、とその三男坊の方が語っていたという。
かのスキーヤー三浦雄一郎氏がその子孫に当るのであろうか。
とにかく偉くなる運動であれば、何といったって、銃後の兵務に気張った武蔵より、殿様の家でいいではないか、とその家のおじいさんが心を決めたのであろう。
村上の家がなんで運動の本家になどなれよう。
余所者でないのかあの二人。
それでかなり厳しい言葉を武蔵に吐きかけていたらしい。
武蔵にしてみれば、自分一人が、国の治安のために身を挺してまで勤めたのだという自信と誇りがあるから、おとなしくはなれなかったと思う。
馬鹿な事をして、巡礼に出ろ、とか無理にも押しやってしまうような剣幕であったらしい。
お前こそ、と負けられないで、物を手にしてまで怒った武蔵に、その分家の本家に当る家のじいさんが、あれは尾張の殿様の娘をいただいて大変なのだ、と初めて教えてやってなだめたことがあった、という話を届けてくれる人がいた。
国を挙げての大運動なのだよ、分かるか、ということであろう。
栄養、とれるか、山の百姓ぐらいで何もいい由縁もなくて。
武蔵にしてみれば、偉くなる話など頭になく、ただ社会的な公安警察意識、無法な侵入者を一人残らずマルかなければならない、という臣民意識、国家の一大事意識があるだけであったのである。
「確かに、今、国家法秩序の危機ではないですか。
偉くなる話など、かえって日本国に失礼な、西洋人かぶれの遊び人のすることなのです」
武蔵の態度はかえってきまじめでずっと今まで正しかったといえよう。
「ほいどして、おらだばりりっぱだ、りっぱだ、って他人をやすめる運動だが」


しかしどこの家でも何かの発展があるし、村上の家の健一もいつも節約してきまじめに勉強しているので、何かあるのかな、とその分家のおじいさんも思い直す事があったらしい。


尾張の殿様がわざわざ来られたについては、母の父親隆太郎の連れ添いに、みちのくまで娘を連れ立ったのであろうという、推理が成り立つ。
大運動の「おしまい」に、日本国の終わり名古屋の高貴筋を入れて頼もうじゃないかという話であったらしい。
門衛をされていたというが、まじめな農家の長男としは嫁にもらいづらかったであろう。
タッチの差で逸れてしまったということであろうか。
しかし近くの分家の家に座られたのである。


母は哀れにも自分の子供を持ったことがないのではないかという、想像がある。
姉は、前の事件の女性の代わりとして、あの箱崎牧場跡みたいな集落にいた者の中から届けられた子供ではないか、というのである。
私は、アメリカ人の企みで、雪道を右側に逸らされた子供ではないかというのである。
昔は庄屋の旧家で、酒造業などでがんばっていたらしい。
母の実家とは近く、親戚関係もあったと思う。
桂小沢の家は偉い、他所に折れないで自立専農でがんばっている。
俺は組織に乗せられてしまった。
後悔している、と話していたという。
普通子供を手放すはずがない。
今流行の妊娠時薬害事件が企まれたのだと思う。
近くの相の沢部落にたった一人、やや顔がホルモン異常に見える青年がいた。
たまに引き合わされて、その人が自分の兄か親戚であるみたいな暗示を掛けられることがあった。
同じ薬がその旧家に回ったのであろう。
ほら、おしっこがぴょっと出ない、と教えられたりして、地域の運動関係者の勧めるままに、子供を村上の家に預けたのではないかという想像である。
母親は、村上の家の分家がある集落から来た人のようで、その家は、やや離れた、やはり昔の村上の家の分家と親戚関係にあるようだ。
すると、江戸時代からの巡りで、元の村上の家、仁左衛門からの流れが辿れるようである。