次に相対性と宇宙のありうべき真実の姿について。


エネルギーを根本単位とすることは誤りかもしれないが、とりあえず、ありとある宇宙存在はエネルギー換算できるもので、すべての現象は数学的に解いて相対的に見ることができる、またそうあり得る、という完璧相対主義がある。
現実の物理界はそのように取り替えやすいものではない。
それぞれの存在の様に宇宙は決定していて、宇宙の個性的な事件がある。
いろいろと疑義があるが、飛ばすと、宇宙に縁がある。
したがって宇宙にはへそがある。
地球は太陽系の中心でもなく、銀河系の中心でもなく、ましてや宇宙の中心どころではない、ちょっとした個性的な住所にある。
中心からいくらかの実在の距離のあるところに地球はある。
地球に対して四方八方に宇宙は、距離的には平均的であるというのはおかしなことである。
宇宙は永遠である。
それは無限性の想像性を言うのと矛盾しない。
無限性を言うのでなく、存在はどうしても消えてしまうことができないということから言うのである。
宇宙は決して終われない。
ニーチェ永劫回帰説の信心をも含ませるような宇宙の真実である。
インドの天文学的なスケールの生命の循環説話にも通う宇宙論である。
現代の天文学と基本的な観念の反省によってこの宇宙観が得られるのであるが、古代の思想家はどのようにしてそのような直観を獲得したのであろうか。
何となく、独立した霊的な通いまで仮想したくなるような符合である。