究極の哲学物理体系の項目について


は、古くから、筆の過ちを含めて、ある程度の量でコピーされてきている。
いろいろな分野に進み入り得るが、少なくとも大きな人生観にも影響のあることだけは、皆さんの知識として、簡単ではあっても届けるべきであると思う。


アンと大尉の運動として、大尉が世の中を統べているようなファンタジー小説がある。
世の中の森羅万象は大尉の頭脳のなかの、バークレー世界である。
落語にもあるような話である。
運動の目的は何か、韓国人の方が教えてくださったように、「森羅万象」である。
普通の社会人活動でないから、その後に晴れがましい堂々と名のれるような最終目標がない。
全世界現象が、愛する大尉のバークレーになれば面白いだけなのである。
運動は最終的にも、人の世に成人として自己紹介できる立場を持っていない。
こそこそと隠れ続け、見つけられるだけである。
バークレーの哲学は主観的観念論であったが、観念論の生い立ちというものは、かえって人知の正直な告白的自覚による学的厳密さ地道さ想像の戒めであったのであるが、バークレーではすでに、個人の体験性を越えるような超越世界が覗き出していたのだったか。
洞窟のイドラ(像)、世界をそれぞれ写すモナド、どうもレンズ術臭い。
アン女王の子供はすべて亡くなり、ドイツから来られた王様がジョージ王である。
この方の家庭で信頼厚い哲学者臣下がライプニッツであった。
アンもジョージも政治はやらなかった。
その分、「世界、地球」に首を突っ込んでおられたのであろう。
その頃の運動の実体者というものは、どうやら女王様とその学僧モンクのペアであったようだ。
デカルトもカントもヘーゲルも鏡額的である事は偶然なことではないのかもしれない。
実際は額にではなく、眼の中の瞳にイメージヒントが落ちていたのであるが。
どれくらいの、歴史に残るような学問と芸術の功績に影響を与えてきたのか、測り知れないところがある。
ルソーもヴォルテールも似て見えてくるが、偶然な事もあろう。
今の人には暴ききれないものがあると思う。
とにかくも、カントの仕事というものは、この認識論的状況の発見を人類知の不変の要として掴み放さず、正面に据えて、世界認識の客観性問題をテーマに掲げたことである。
この問題は今も実質は懸案状態にあって、生真面目にその問題性の着実な確認を行う者はなく、人間の根本事情において極めて不安定な足場のままに、客観性を語り、客観性を笑うことがある。
常に根底返しを演じて見せるのが哲学であると信じ込んでいる。
だから、他の世界にあるブロック積みのような歴史の発展が見られないのである。