長崎の出島は暗箱を模してデザインされていた

本当なら、江戸時代初めにも、西欧で、暗箱サンタ活動が広がっていたという証拠になる。
暗箱、一名射光器というものは、光を反射して一点の出口に集中強化する仕掛けであるから、反射式石油ストーヴの背景部みたいに、アコーディオン状に湾曲していると考えられる。
今のあんど運動の本部があると言われている、ヘブリディーズ諸島も英国本島の最北西部で、あたかも人類の前額部を照らしているみたいな形に湾曲している。(後に、ヘブリディーズは駄洒落を飛ばしただけの情報であったと教わった)


このことに気づいたのは、今日読んだばかりの、司馬遼太郎先生の「オランダ紀行」の以下の文章に出合った時であった。
「国じゅうが暗箱のなかに入って、針で突いたような穴が、長崎にだけあいていた。
そこから入るすかな外光が、世界だった。
その世界像に対し、鋭敏な感光板をもつひとびとが・・・」
「長崎の出島の蘭館が、暗箱にあけられた針でついたようなただ一つの穴であった」

この頃日本に実際、活動があったとしても、教育指導的文化的な影響のものではなかったかと想像する。
その後の今に及ぶ世界支配的な、「あんど」運動というものは、オランダ独立戦争の指導者ウィレム沈黙公の何代か後の総督であり、イギリスの権利の章典を認めウィリアム三世オレンジ公となった人の後継、アン女王の時以来の運動ということになろうか。
女王は王の権限を身にまとって政治に口を出すことは一切しなかったという。
立憲君主制の原則が確立されたのはこの治世においてであった。
息子を早死にさせてしまったアン女王の後に来たのが、ドイツ、ハノーバーのジョージ一世である。
英語もしゃべれず、更に国政無関心で、ハノーバーにこもっていることが多かったという。
この人は、人類史の高嶺を成す有名文化人達の背景にいる王族達の一員でもある。



終わり